スーパーでバイキング形式の総菜コーナーの前を通ると、お年寄りがその前で知り合いと立ち話をしたり、咳をしたりしている。トングで惣菜を取る時に袖や服のすそが手前の食材にこすれていたり、一度容器に取った食べ物を指でつまんで元に戻したりもしている。独り言をしゃべりながら、トングで全部ひっくり返して選んだりもしているので、唾がかかっていない下の方からとることもできない。先日は、床に落としたてんぷらを拾って元のトレイに戻していた(この時はひどいと思い、店員さんに伝えた)。

 総菜コーナーの前を通った時に、お年寄りがいると、かなりの確率できれいな取り方をしていない。私が通っていない時のことを考えると、常時不衛生な状態にあるのではないだろうか。大型店に行くと、カバーがかかっているところもあるが、それだと少しはましだろう。

 本当のことを言うと、女性は若い時にはしないこと、言わないことも、年を取るといわゆるオバタリアンとなって、手がつけられないほど自分勝手になる人が多い。男性も、仕事をやめる60歳ごろから汚くわがままとなる人が多いと思う。言動も荒々しくなる。「実るほど首を垂れる稲穂かな」ということわざがあるが、人の場合、年を重ね人生経験が豊かになればなるほど実らないのが実態であるとは不思議なことだ。

 やはり人間は動物で、本能として「生き残ろう」というのがあり、そのためには自己中である必要があるのだろう。まだ何も学んでいない赤ちゃんは、当然ながら自己中だ。他人のことなど考えたりはできない。お年寄りも、ある時からリミッターが外れ、本来の人間の姿に戻るのだろう。教育と理性によって、小学生頃から65歳ごろまで何とかその本能を抑えて生活をしているにすぎないのかもしれない。

 高齢化社会を迎える今、社会的孤立を防ぐためにも、自己中に戻ったお年寄りでも社会の中で何とかやっていく方策が必要だ。しかし、根本的なことを考えると、自己中になってしまったお年寄りでも以前は理性が勝っていた。それが弱くなったのであれば、弱くならない方策を考えた方がよい。なぜ理性が弱くなるのか。それは、仕事をやめ、人とのかかわりが少なくなり、相手のことを考えて生活する必要もほとんどなくなったことも要因であろうし、仕事や人生の目標がなくなってしまったことも、投げやりにさせてしまっているのかもしれない。結論としては、陳腐な言い方だが、やはり「絆と生きがいが大切」というところに落ち着くのだろうか。

 そうは言われても、ではどうやって?と思うお年寄りは多いだろう。若い人と同じような仕事はできないので、安い給料で(高くすると負担が増える)知恵や経験を使った仕事、例えば小中学校で得意なことを短時間教えるとか、元の職場で短時間働くようなことを、ほとんどのお年寄りができるような社会のしくみを制度化することもいいのではないだろうか。もちろん毎日の必要はない。地域のサークルや趣味だけで残りの人生を過ごすというのも厳しいだろうし、お年寄りが孤立せず、以前のように他人ともうまくやっていくためにも、半強制的で、しかも、目標をもって生き生きと楽しく過ごせる生活の在り方を提示し、取り組ませることが必要だ。

 高齢化社会になるのは、とても心配だ。担当大臣はいただろうか。大臣が増えすぎてよくわからないが、老後のしくみを誰かが早く考えて制度化し、実行してもらいたい。