しばらく前、どこかの障害者施設で、殺傷事件が起きた。犯人は、「障害者は社会の役に立たないから殺した」と話した。それに対し遺族らは、「そんなことはない。一生懸命生きていたんだということをわかってほしい。」という。このニュースを伝えているアナウンサーも、「輝いていた人生だったということをしってほしい。」という。わたしには、遺族やアナウンサーの主張が心に響かない。今朝も、NHKで障害者と大学生たちのやり取りの番組があったが、大学生たちも障害者の願いに納得できない様子だった(腑に落ちないと話していた)。
胎児が奇形児だとわかっても、それを理由に中絶はできない法律になっているが、現実には「母体の安全性や経済的理由のための中絶」に無理やり当てはめて、中絶は行われる。なぜなのだろうか。もちろん私も、自分の妻が宿した胎児の頭が2つあり、足が4本あるとわかったら、その子を中絶させる。微塵の罪悪感も後悔もない。
犯人が選んだ殺人行為は違法なので、彼が起こした事件は彼が悪い。私は彼と同じような人を殺すという方法を取らないが、考え方や思いは私も同じだ。しかし、障害者に対する思いを口にするときは、遺族やアナウンサーのように、仕方がなく建前を言うだろう。
やはり障害者に対する今の社会の在り方には無理がある。胎児に脳障害や奇形が見られたら、両親の意思で中絶を認めるような法整備が必要なのではないだろうか。そうなると、現在いる障害者を否定することになるとの意見が必ず出てくるが、それは法律で守るようにすればよい。脳障害や奇形児でも両親が出産を望むのであればそれを否定するものではないが、これ以上無理には増やすことはないだろう。そのほうが、両親も生まれてくる子どもも、矛盾を感じながら経済的精神的につらい一生を送らずに済む。