宮崎国会議員の不倫が発覚し問題となっている。彼は学生時代も議員になってからも「チャラ男」で通っているとのことだ。宮崎議員の地元の人々のインタビューを見ていると,皆彼を批難している。それをテレビで見ていて思ったのであるが,どうせ次の選挙では宮崎氏は嘘(偏った一部の事実も含む)や確証のないことなどを入れながら立派な理想論を市民に訴え,再び当選することになるのだろう。

 つまり市民(国民)は,立候補者が話したことを信じて投票することになる。選挙前,立候補者は街頭やテレビなどで自分が当選後にやっていきたいことを訴える。それは当然悪いことや小さいこと,くだらないことであっては当選しない。だから,自分が現実的にやっていくこととか自分にできることとは関係なしに,一番当選しそうなフレーズを並べて,国民の関心を引き期待されるようなことを叫び続ける。確実性などはどうでもよいことだ。選挙は作文能力とそれを訴えるハッタリ力(みせかけの魅力)で決まる。

 だから,選挙は茶番劇なのだ。立候補者がふざけた適当なことを言い,国民がそれを聞いて真に受けて投票し,あとになってから「人格がひどい」「経済や年金はどうするんだ」「非正規雇用や人口減少が心配だ」などと文句を言う。次の選挙で「わたしはそれを改善します」と作文を聞かされ,また投票する。馬鹿者たちの悪いお遊びだ。

 では選挙はどのようにすればよいのだろうか。やはり立候補者の人格や政治的能力についての保証が必要だ。それは口先だけでは判断できない。どうしても過去の行動が重要になってくる。例えば,その人物が市議会や県議会でどのような成果をあげてきたのか(市議や県議をやっただけではだめである),大学でどのような研究活動をしてきたのか,公務員として国連でどのような活動をしていたのか等々事実を列挙し,それを新聞に載せたり,それだけを当人に選挙放送で述べてもらったりして,国民が投票するのがベターである。嘘くさい,人をだますための街頭演説などはいらない。握手も,その場限りの笑顔やお辞儀も禁止にする。そうすると国民も,あの人は愛想がよく誠実そうだ,選挙活動で握手をしてもらった,銭湯で背中を流してもらった,演説の内容も言い方もすばらしい,親がよい議員だったなどといった理由で投票することがかなり減るだろう。当然,大学を卒業後,フリーターをしていたような人も当選しなくなる。

 しかしこれもまた理想なのだろう。仮にこのようにするよう法的な拘束力をかけたとしても,国民は,どこかで握手をしてくれた人,人的なコネのある人,うまい作文を街頭以外の場所で話していた人に投票するだろう。日々の小さなプロパガンダの積み重ねに,国民はやられてしまうのだ。