はじめに言葉の定義を確認しておきたい。「体罰」を辞書で調べると,「こらしめのために,身体的な苦痛を与えること」とある。ウィキペディアには,「身体への暴力行為」とある。ここで初めて「暴力」という言葉が出てきて,「悪いことだ」という意味を与えている。おそらく世間の人々も,この二つの意味を混同しながら使っていることが多いと思う。私はどうでもいいのであるが,正確に定義づけをしないと,正確に話ができないので一応何かには決めたい。私は辞書を尊重し,罰のために身体的な痛みを与えることとしたい。「罰」のためなので,当然身体的な痛みというのは怪我をするようなレベルの痛みであってはならない。

 神戸新聞が「体罰は指導の未熟さの表れといわざるを得ない。子どもには恐怖や憎悪しか残らず、それが新たな暴力やいじめを招くとも指摘される。」と論評した。
「体罰は指導の未熟さの表れといわざるを得ない。」というが,それは誰が決めたのだろうか。その根拠は何なのだろうか。日本でも戦前,戦中,戦後から数十年前までは学校で体罰があたりまえであった。そして立派な社会人をたくさん生み出し,その人々が日本を発展させてきた。昔の教員の多くは,未熟者だったというのか。昔の子どもたちは,学校の先生を恐いと思っていたかもしれないが,嫌いだとか憎いと思ってはいなかったであろう。なぜなら,悪くない子ども,一生懸命頑張っている子どもをたたくというような先生はいなかったからだ。昔でも今でもそれは変わらない。
「暴力」は,全く悪くない人,何の落ち度もない人をたたくからよくないが(たたかれる人にマイナス要素はないが),「体罰」は悪いことをした子どもや怠けたりずるをした子どもを戒める行為なので「暴力」とは異なる。
 神戸新聞は,「子どもには恐怖や憎悪しか残らず…」とも主張する。しかし,この記事の1つ前の記事にも書いたように,バスケ部顧問に対してバスケ部OBや現バスケ部員は,厳しさを感じつつ感謝や崇敬の念を持っていて,恐怖や憎悪などだれも持っていなかった(例外的に何人かはいたのかもしれないが,何においてもどうしても自分に合わないというものはあるものである)。
 この神戸新聞の主張は,適切ではない。自分の見識の狭さ,未熟さを知るべきである。