「10月下旬,1戸から蕎麦の実1キロ当たり250ベクレルが検出された。その後の全戸検査の結果、すべて基準値を下回ったため同日、出荷自粛要請を解除した。」
これは,ある市のセシウムに関する報道である。国の基準(100ベクレル)を超えたものが発見された→全戸検査をしてすべて基準値を下回った→すべて出荷,という構造である。では,国の基準の2,5倍のセシウムを含んだ蕎麦の実は,どこに行ってしまったのだろうか。その1戸の農家の畑だけにピンポイントでセシウムが降ったとでもいうのだろうか。
これにはからくりがある。全戸検査というのは,すべての蕎麦の実を検査するということではない。すべての農家,あるいは全体から抽出された農家のごく一部の蕎麦の実についてセシウムを調査するということである。つまり全部の蕎麦の実を検査するのではなく,広く全体的に調査をしたということである。もちろん,高濃度のセシウムが見つかれば,それはその場ですぐに捨てて,また適当に蕎麦の実を拾い上げて調べることだろう。そして,セシウムが検出されない実にあたるまでそれは繰り返される。なぜそれがわかるかって?。もし複数の,あるいは全部の蕎麦農家の実が汚染されていたら,市内の蕎麦農家をはじめ,乳業,畜産等々に打撃が及び,その市全体が莫大な被害を受ける結果になるからである。むしろ,そのようなごまかしを検査でおこなわない市町村が日本にあるのかと,逆に問いたい。日本人は誠実だなどと外国からいわれていい気になっているが,日本人はいざとなれば自己を守るために他人を平気で殺せるのである。
このからくり検査は,魚にも当てはまる。1匹でも基準越えが見つかって公になってしまった場合,広くごまかし検査をして全てが基準値を下回ったとなり,すべての魚が再び市場に出て,われわれの口に入るのである。基準を越えた魚は1匹だけということはなく,かなりの数がいるのだろう。それがすべて国民の口に入るのだ。全部検査をする(=広く抽出して全体的に検査をする)という行為によって,基準値越えの魚たちがすべて消え去ってしまうということは絶対にない。
農産物や魚介類から国民が高濃度のセシウムを摂取し続けていることを容認している日本政府の状況について,ヨーロッパ諸国では「日本では国家的テロがおこなわれている」と評されているのである。私も同感だ。できることなら,私は日本にいたくない…。
これは,ある市のセシウムに関する報道である。国の基準(100ベクレル)を超えたものが発見された→全戸検査をしてすべて基準値を下回った→すべて出荷,という構造である。では,国の基準の2,5倍のセシウムを含んだ蕎麦の実は,どこに行ってしまったのだろうか。その1戸の農家の畑だけにピンポイントでセシウムが降ったとでもいうのだろうか。
これにはからくりがある。全戸検査というのは,すべての蕎麦の実を検査するということではない。すべての農家,あるいは全体から抽出された農家のごく一部の蕎麦の実についてセシウムを調査するということである。つまり全部の蕎麦の実を検査するのではなく,広く全体的に調査をしたということである。もちろん,高濃度のセシウムが見つかれば,それはその場ですぐに捨てて,また適当に蕎麦の実を拾い上げて調べることだろう。そして,セシウムが検出されない実にあたるまでそれは繰り返される。なぜそれがわかるかって?。もし複数の,あるいは全部の蕎麦農家の実が汚染されていたら,市内の蕎麦農家をはじめ,乳業,畜産等々に打撃が及び,その市全体が莫大な被害を受ける結果になるからである。むしろ,そのようなごまかしを検査でおこなわない市町村が日本にあるのかと,逆に問いたい。日本人は誠実だなどと外国からいわれていい気になっているが,日本人はいざとなれば自己を守るために他人を平気で殺せるのである。
このからくり検査は,魚にも当てはまる。1匹でも基準越えが見つかって公になってしまった場合,広くごまかし検査をして全てが基準値を下回ったとなり,すべての魚が再び市場に出て,われわれの口に入るのである。基準を越えた魚は1匹だけということはなく,かなりの数がいるのだろう。それがすべて国民の口に入るのだ。全部検査をする(=広く抽出して全体的に検査をする)という行為によって,基準値越えの魚たちがすべて消え去ってしまうということは絶対にない。
農産物や魚介類から国民が高濃度のセシウムを摂取し続けていることを容認している日本政府の状況について,ヨーロッパ諸国では「日本では国家的テロがおこなわれている」と評されているのである。私も同感だ。できることなら,私は日本にいたくない…。