十年程前から「プレゼン」という言葉をよく耳にするようになった。最近では大学でプレゼン能力を高める授業をおこなったり,その能力を競うコンクールなども行われているようだ。しかし「プレゼン」という言葉がはやり出す数十年前は,プレゼン全盛期の今に比べて会社の実力や学生の質が劣っていたのだろうか。私には,どうもこの「プレゼン」という言葉がくせものに思えてしかたがない。
 プレゼンがうまくてもへたでも,すでにある事実に変わりはない。要するに,プレゼンとは詭弁や感情表現をフル活用して,部分的な事実や偏った自分の意見を相手に「素晴らしい」「正しい」と思わせるごまかしの技である。どんなに口先が達者でも,現象を変えることはできないのである。
 政治家たちはプレゼン(=説得=詭弁)がうまいから,国民はみんなだまされるのである。国民は政治家たちに嘘や局所的な事実のみをうまく説明され,いつもひどい目にあってきたはずだ。プレゼン能力なんかどうでもよい。いや,むしろ自己の偏った意見,部分的な事実のために全体としては不正確となってしまっている事実を,相手に「その通りだ!」と思い込ませる説得能力が高い人が増えると,めちゃくちゃな社会(ごまかしにあふれた社会)になってしまうのではないだろうか。プレゼン練習は,何が何でも商品を売ろうとする会社の開発者やセールスマンだけでよい。
 話し方などに関係なく,事実や現状を着実に高めること,そのことが大事である。そうやって先人たちは黙々と戦後日本の技術をここまで発展させてきてくれた。企業や大学生の実力が落ちてきたから,プレゼン(詭弁やセールストークの向上)でカバーしようというのでは本末転倒であろう。必要以上のいわゆる「プレゼン」はいらない。