大飯原発の安全性について,総理の記者会見を待っていた福井県安全専門委員会は本日,「想定すべきとされる地震、津波が襲っても、原子炉の安全を確保するために必要な対策は確保されているものと評価できる」と発表した。「想定すべき」とは,想定してはいけないことを排除した残りカスに過ぎない。
「想定外」について考えてみたい。「想定する」のは,知識の少ない者や総合的な判断ができない者,しがらみや人間関係(付き合いや上下関係)を乗り越えられない者,お金や利益をもらっているから本当のことが言えない者など,誰でも勝手にできることであるから,実体や現状などとは無関係であっても構わないのである。だから,誰かが「想定」したから,それが適切であるとはいえない。むしろ,先にあげたようなことがまったくない人(換言すれば,適切で信頼できる「想定」を示せる人)は,政治家や企業,そして研究者(ごく一部の頑固者の研究者を除く。全ての研究者が国から補助金をもらっている)にはいないはずである。したがって「想定外」のことだったから,仕方のなかったこと,しょうがないことだったという意味で「想定外」という言葉を使うのは,単なる言い訳やごまかしに過ぎない。
20年くらい前には,これほど「想定外」という言葉を多用したり,自らの正当化の道具として使ったりするようなことはなかったように思う。なぜこのような使われ方がされるようになったのかを考えてみた。私の記憶では,あの詭弁の神様,すり替えの魔術師である堀江氏(元ライブドアの社長)がテレビに出て,自己弁護をする時によく使ったことが始まりのような気がする。そして政治家やマスコミが使いだし,今のようになったのではないだろうか。彼らしいと言えば彼らしいが,それを同じように使う者にも責任はある。
無知は(社会的,倫理的に)罪となることもあるのである。
「想定外」について考えてみたい。「想定する」のは,知識の少ない者や総合的な判断ができない者,しがらみや人間関係(付き合いや上下関係)を乗り越えられない者,お金や利益をもらっているから本当のことが言えない者など,誰でも勝手にできることであるから,実体や現状などとは無関係であっても構わないのである。だから,誰かが「想定」したから,それが適切であるとはいえない。むしろ,先にあげたようなことがまったくない人(換言すれば,適切で信頼できる「想定」を示せる人)は,政治家や企業,そして研究者(ごく一部の頑固者の研究者を除く。全ての研究者が国から補助金をもらっている)にはいないはずである。したがって「想定外」のことだったから,仕方のなかったこと,しょうがないことだったという意味で「想定外」という言葉を使うのは,単なる言い訳やごまかしに過ぎない。
20年くらい前には,これほど「想定外」という言葉を多用したり,自らの正当化の道具として使ったりするようなことはなかったように思う。なぜこのような使われ方がされるようになったのかを考えてみた。私の記憶では,あの詭弁の神様,すり替えの魔術師である堀江氏(元ライブドアの社長)がテレビに出て,自己弁護をする時によく使ったことが始まりのような気がする。そして政治家やマスコミが使いだし,今のようになったのではないだろうか。彼らしいと言えば彼らしいが,それを同じように使う者にも責任はある。
無知は(社会的,倫理的に)罪となることもあるのである。