鉢呂氏の発言について,情報番組などが大きく取り上げている。
 司会者やコメンテーターの意見は鉢呂氏に対する批判一色で,ごくたまに実績のある年配のコメンテーターが鉢呂氏を擁護するような発言をするとすかさず司会者が否定していた。そのような場を3回見たが,必ずこのパターンであった。もし違う意見を持った人がそこのスタジオにいたとしても,鉢呂批判以外の発言はできそうにない雰囲気だ。殺気さえ感じられた。番組内で流れる街頭インタビューの発言はすべて同じ内容のもので,「信じられない」「福島の人の気持ちをふみにじっている」といったようなものだけが選ばれていた。
 鉢呂氏の辞任会見では,他の記者が指摘していたように,やくざ言葉で鉢呂氏を攻撃していた記者?も混ざっていた。
 
 今回の鉢呂氏の問題へのマスコミ対応は徹底している。マスコミ内で多様な発言が,事実上できなくなっている。鉢呂氏擁護の記事を新聞に書いたりネットでつぶやいたりしようものなら,ものすごい攻撃が一斉に来そうな雰囲気だ。これまでもそのような流れはあったが,今回の徹底ぶりを見ていると度を超えており,日本では自由に発言できなくなったような怖ささえ感じる。やくざ言葉の記者(やその集団)の存在は,この事件の誘発への関与をも想像させる。
 放射能をつけた(つける真似をした?)という問題も,鉢呂氏が言ったとされる発言内容が全ての大手新聞社で異なっており,正確さを欠いている。一流新聞社が今回の騒ぎに大きく絡んでいたことも残念だった。発言現場に前出のやくざ記者がいて,周囲の記者たちに対して誘導発言をして記事を書かせてしまったということはなかったかと勘ぐってしまう。
 今回は日本における言論の自由やマスコミの報道の在り方,野党の役割,そしてそれらの存在について深く考えさせられた。様々な点でとても嫌な感じで進んだ問題だった。 

 
<「死の町」発言について> 
 新聞やネットを見ていると,ますます「死の町」発言がなぜ悪いのか,なぜそこに住んでいた人々の感情を逆なでするのかわからなくなる。人っ子一人おらず,音もしないきれいな街並みを見て,死の町だと表現しないで何と表現するというのだろうか。その町の様子を見て,どのような町でしょうかと問われると,多くの国民やそこの住民だった人々は何と表現するのだろうか。廃墟やゴーストタウンならよいというか。私にはむしろ発言者(鉢呂氏)から,平和な町をそのようにした東電などへの怒りやそこの住民たちに対する悲しみが伝わってくるのである。
 仮にまだ数人でも住んでいたとしたら,住んでいる人たちが「自分たちは死の町に住んでいるのか」と不快に思う恐れもあるので,死の町と表することは適切ではないかもしれないが,今は住民がゼロなのである。建物は整然と並んでいるが,町としての社会的機能が存在していないのはもちろん,町を構成する人そのものがいない状態なのである。それをそのまま表することに悪意も差別もないだろう。そもそも第三者である世間やマスコミが言うように(「そこの住民だった人の気持ちを踏みにじる」),本当にそこの住民だった人が「死の町」発言を聞いて怒っているのだろうか。もし本当に怒っているとしたら,それは鉢呂氏にではなく,東電や政治家,福島第一原発の電気を主に使っていた関東地方の住民などに対してではないのだろうか。
 それぞれの利益のために,そこの住民だった人々をうまく利用しているだけだとしたら,それはもう直らないだろう。