1つ前の記事のその後であるが,今朝のニュースをみたら一転して京都が被災地高田松原の薪を送り火で燃やすことになったらしい。それだけはやめてほしかった。
全ての薪には津波で流された自分の両親や子供などにむけての言葉や復興への願いが被災者たちによって書かれていた。京都から薪を拒否され,それらの薪は月曜日に地元で燃やされた。言葉を書いた人々,地元の人々はどんな思いで炎を見つめていたのだろうか。賽は投げられたのである。その後の「やはり行う」は何の意味もなく,ただの嫌がらせにしかならない。もう願いが込められた薪はないのである。もう地元で悔しさや悲しさを抱えながら燃やしてしまったのである。
京都には別の薪が送られ,薪へは京都市民や観光客がこれから願いを書くとのことだ。どうして送り火で燃やすことを拒んだ京都市の市民が願いを書くのだろうか。どうして別の目的で京都を訪れた観光客が高田松原の薪に願いを書くのだろうか。自分たちが書いた薪を拒否され身内だけでさみしく燃やした被災者たちはこのことを知ったらどう思うか想像すると,京都に対して怒りが込み上げてくる。
京都の人々は,今回の件で自分たちの県民性が客観的にわかったのではないだろうか。これ以上被災者を悲しませないためにも,震災復興にはもうかかわらないほうがよい。
全ての薪には津波で流された自分の両親や子供などにむけての言葉や復興への願いが被災者たちによって書かれていた。京都から薪を拒否され,それらの薪は月曜日に地元で燃やされた。言葉を書いた人々,地元の人々はどんな思いで炎を見つめていたのだろうか。賽は投げられたのである。その後の「やはり行う」は何の意味もなく,ただの嫌がらせにしかならない。もう願いが込められた薪はないのである。もう地元で悔しさや悲しさを抱えながら燃やしてしまったのである。
京都には別の薪が送られ,薪へは京都市民や観光客がこれから願いを書くとのことだ。どうして送り火で燃やすことを拒んだ京都市の市民が願いを書くのだろうか。どうして別の目的で京都を訪れた観光客が高田松原の薪に願いを書くのだろうか。自分たちが書いた薪を拒否され身内だけでさみしく燃やした被災者たちはこのことを知ったらどう思うか想像すると,京都に対して怒りが込み上げてくる。
京都の人々は,今回の件で自分たちの県民性が客観的にわかったのではないだろうか。これ以上被災者を悲しませないためにも,震災復興にはもうかかわらないほうがよい。