学校教育は公教育である。国が指導内容を決め,自治体が選んだ指導者によって,一人の国民として子どもたちを教育している。親が望む教科や生活指導を,親の代わりに行うところではない。しかし親たちの攻撃的かつ膨大な量の要望は半端ではない。それは,将来の子どものためというより,その親の個人的な考えや生活環境が学校と大きく異なっていることが起因していることが多い。だからその親に公教育が合わせたり配慮したりすることは本来必要ない。
人間とは,弱いものを見ると徹底的に攻撃したくなる動物である。戦前や戦時中の学校では,今の学校のように「家庭との信頼関係を築いて…」とか「みんなで一緒に…」などの名のもとに,親たちに意見や文句を言わせたりするなど考えられないことであった。そのような態度を学校がとるから,それを見ている子どもたちも,「学校でいやなことがあったら,親に言いつけてやればいいや」「学校なんて親の言いなりだから,先生なんかのいうことを聞かなくてもいい」などと思うようになっているのである。昔の学校や教師は絶対的で権威があったから子どもたちへの指導もよく通り,変な若者などには育たなかった。礼儀正しくて自分勝手なことなどを言わず,我慢強くて何事にも一生懸命頑張る大人になっていき,今の日本をここまで発展させてきた。今の親たちは自分の考えが正しいと信じ込んでおり,子どものわがままや嘘をじっくり聞いてやることで「自分はいい親だ」と自己陶酔する。その後親たちは井戸端会議で徒党を組んで学校をやっつける計画をして学校に乗り込み,それを学校はペコペコしながら聞いてやる。その結果子どもが昔のように立派に育つなら良いのであるが,それによって子どもたちは他人に責任を押し付けながらわがままにだらだらと生き,おかしな若者やニートの大人となっているのである。親たちはいったい何を目指しているのだろう。未熟者がストレス発散の場として学校を利用したりしないでもらいたい。子どもたち,ひいては社会への悪影響が計り知れないのである。
学校は親たちの言い分を一切聞かず,学校と教師の教育は絶対的なものとして誰もが言うとおりにし,家庭でも学校でも子どもに口答えなどをさせないで厳しく育て(体罰はいいが明らかな暴力や憎しみなどはいけない),昔のような教育を復活させていく必要があるのではないだろうか。上に書いた教育のあり方とその結果は戦前や戦中の学校において実証済みのことであり,私の願いなどではない。もし反論をするなら,結果が確かに保障できる別の方策が必要だ。少なくとも今の親や学校の態度のままでは,それで育った若者を見る限りよくないことは確かである。
人間とは,弱いものを見ると徹底的に攻撃したくなる動物である。戦前や戦時中の学校では,今の学校のように「家庭との信頼関係を築いて…」とか「みんなで一緒に…」などの名のもとに,親たちに意見や文句を言わせたりするなど考えられないことであった。そのような態度を学校がとるから,それを見ている子どもたちも,「学校でいやなことがあったら,親に言いつけてやればいいや」「学校なんて親の言いなりだから,先生なんかのいうことを聞かなくてもいい」などと思うようになっているのである。昔の学校や教師は絶対的で権威があったから子どもたちへの指導もよく通り,変な若者などには育たなかった。礼儀正しくて自分勝手なことなどを言わず,我慢強くて何事にも一生懸命頑張る大人になっていき,今の日本をここまで発展させてきた。今の親たちは自分の考えが正しいと信じ込んでおり,子どものわがままや嘘をじっくり聞いてやることで「自分はいい親だ」と自己陶酔する。その後親たちは井戸端会議で徒党を組んで学校をやっつける計画をして学校に乗り込み,それを学校はペコペコしながら聞いてやる。その結果子どもが昔のように立派に育つなら良いのであるが,それによって子どもたちは他人に責任を押し付けながらわがままにだらだらと生き,おかしな若者やニートの大人となっているのである。親たちはいったい何を目指しているのだろう。未熟者がストレス発散の場として学校を利用したりしないでもらいたい。子どもたち,ひいては社会への悪影響が計り知れないのである。
学校は親たちの言い分を一切聞かず,学校と教師の教育は絶対的なものとして誰もが言うとおりにし,家庭でも学校でも子どもに口答えなどをさせないで厳しく育て(体罰はいいが明らかな暴力や憎しみなどはいけない),昔のような教育を復活させていく必要があるのではないだろうか。上に書いた教育のあり方とその結果は戦前や戦中の学校において実証済みのことであり,私の願いなどではない。もし反論をするなら,結果が確かに保障できる別の方策が必要だ。少なくとも今の親や学校の態度のままでは,それで育った若者を見る限りよくないことは確かである。