福島ではプールの使用を控える学校が増えていたが,これについて文科省が「プールを使用して問題ない」と県内の各学校に伝えた。文科省では県内のプールの放射線量は調査していないが,「常識的に考えて問題ないと判断した」とのことだ。思い出してみよう。国(文科省)の「常識」とは,子どもが浴びる放射能の年間許容量を「20ミリシーベルト」としているような知識や感覚で,国内外の一般市民や学者のそれとは極端に違うものであったはずだ。
プール使用もそうであったが,各自治体は文科省による様々な放射能基準値の発表を待っている状態と聞く。農産物に関する暫定基準値は発災前のものとは異なりとても高い値となっている。この暫定基準値は,国民の健康の安全という観点から出てきたものではなく,原発の爆発時に放出された,あるいはその後に放出されると予想される放射能の量と,農家の数(出荷停止となった場合の仕事上の被害者の数)とのバランスから導き出されたものではないかと私は思うのである。だから私は国(文科省)が発表する放射能基準値を自治体が待っていると聞くと,自治体も市民の健康を考えながら行動をしているのではなく,後に責任を逃れるために国の示す基準をほしがっているだけなんだろうなあと感じてしまう。行政は,国も地方も国民の健康など考えていない(儀礼的・形式的気遣いのレベルは除いて)。
日本は,欧米と判断や決定の仕組みが異なっているように思う。ドイツの首相は福島の事故の状況を冷静にとらえ,国民の声も聴いて判断をしている。日本は,総理一人の個人的な願いや様々なしがらみ,思惑などに基づいて判断がなされる。だから現状や国民の願いとはかけ離れた判断ばかりがなされてしまう。日本では国のトップを選んだり重要なこと(反原発にするかどうかなど)を決める際に国民投票を行わないというのも,様々な思惑を持った政治家たちのみによって物事を決めてその通りにしたいからであろう。ある種の独裁政治である。このようにいうと,日本の政治家たちは「我々は国民によって選ばれたんだ」「我々は国民の代表だから,国民の声の代弁者だ」というかもしれない。もしその理屈が本当に適切なものであるならば,欧米から国民投票などなくなるはずだ。そもそも今の日本の政治家たちが選ばれたのはその人にぜひ日本国の政治家になってもらいたいからではなく,単に消去法で選ばれたにすぎず,実態は国民の代表などではない。真の代表者は,「我々は国民の代表者だ!」などと大口もたたかないものだ。
日本は形式上民主国家であるが,実態は詭弁と低俗な思惑に支配された独裁国家になってはいないだろうか。
プール使用もそうであったが,各自治体は文科省による様々な放射能基準値の発表を待っている状態と聞く。農産物に関する暫定基準値は発災前のものとは異なりとても高い値となっている。この暫定基準値は,国民の健康の安全という観点から出てきたものではなく,原発の爆発時に放出された,あるいはその後に放出されると予想される放射能の量と,農家の数(出荷停止となった場合の仕事上の被害者の数)とのバランスから導き出されたものではないかと私は思うのである。だから私は国(文科省)が発表する放射能基準値を自治体が待っていると聞くと,自治体も市民の健康を考えながら行動をしているのではなく,後に責任を逃れるために国の示す基準をほしがっているだけなんだろうなあと感じてしまう。行政は,国も地方も国民の健康など考えていない(儀礼的・形式的気遣いのレベルは除いて)。
日本は,欧米と判断や決定の仕組みが異なっているように思う。ドイツの首相は福島の事故の状況を冷静にとらえ,国民の声も聴いて判断をしている。日本は,総理一人の個人的な願いや様々なしがらみ,思惑などに基づいて判断がなされる。だから現状や国民の願いとはかけ離れた判断ばかりがなされてしまう。日本では国のトップを選んだり重要なこと(反原発にするかどうかなど)を決める際に国民投票を行わないというのも,様々な思惑を持った政治家たちのみによって物事を決めてその通りにしたいからであろう。ある種の独裁政治である。このようにいうと,日本の政治家たちは「我々は国民によって選ばれたんだ」「我々は国民の代表だから,国民の声の代弁者だ」というかもしれない。もしその理屈が本当に適切なものであるならば,欧米から国民投票などなくなるはずだ。そもそも今の日本の政治家たちが選ばれたのはその人にぜひ日本国の政治家になってもらいたいからではなく,単に消去法で選ばれたにすぎず,実態は国民の代表などではない。真の代表者は,「我々は国民の代表者だ!」などと大口もたたかないものだ。
日本は形式上民主国家であるが,実態は詭弁と低俗な思惑に支配された独裁国家になってはいないだろうか。