原子力や放射能関係の研究者たちは,原発も放射能も野菜も安全だという。その理由付けとして,次の2つのようなものが目立つ。
1つは,地球上にはもっと自然放射線の高い所があるとか,放射線量の高い地域の1時間当たりの値よりも病院で受けるCT(レントゲンを連続で何回も撮影をするのような検査機器)のほうが放射線の値が高いといった,さらに放射線量の高い例を持ってきてだから浴びても安全なんですというものである。
もう1つは,様々な事実から自分の都合のよいものを選んで,自己の主張の正当性を高める道具にするというものである。放射性物質はチリのようなものだから原発から離れた地域ほど放射能値は低くなるという事実がる。また,原発周辺や東京のホットスポット,チェルノブイリのホットスポットを見てもわかるように,放射能値の高さは風向きや地形,雨などの天候などが影響するために必ずしも距離と比例するものではないという事実がある。この2つを,学者たちはその時の自分の論にふさわしいほうを選択し,現実とはかけ離れた言葉の世界の中で浮かれ,自己陶酔をする。見ていて滑稽である。研究者とはそんな程度であろう。旧帝大で何十年も原発の安全性をあらゆる面から研究をし,給料をもらい,論文をたくさん書いて賞をもらって喜んできた最終到達点が福島原発の事故である。研究者とはいったい何なのだろうと考えさせられる。
発災以降テレビを見ていると放射能関係の研究者が勘違いをして調子に乗っているように見えるので,反省と自戒の念をいだきつつ現実に即した事実だけを話すようにしてもらいたいと思うのである。
このほど携帯電話が脳に悪影響を与えることが明らかになった。携帯電話は多くの研究者たちの研究の結晶でできたのだろう。これを生み出した研究者は,携帯電話が社会や生活を便利にしたというだろう。しかし携帯電話が普及していなかった30年前の生活と比べて本当に便利な世の中になったのだろうか。その場ですぐに電話ができない30年前,誰か不便を感じていただろうか。固定電話のある場所まで移動をしないで寝ながら話ができることが本当に人間の精神や体(健康)にとってよいのだろうか。携帯が普及することで仕事内容や社会が変わった点も多いが,その変わった点は本当に便利で発展した現象ととらえられるだろうか。研究者たちは余計なもの,人間にとってよくない物を,給料をもらいながら長年研究をし作り出してしまったのではないだろうか。極論すれば,江戸時代など現在よりも以前の人々は不幸を感じながら生きていたわけではあるまいし,江戸時代のままだったら現在も未来も自然豊かな故郷でのんびりと暮らしていけたことであろう。日本中の人々が放射能を気にせず野菜や魚,肉などを食べたり飲んだりし続けられたことであろう。別に月に人が立ったり宇宙にステーションをつくったりする必要もない。科学技術の発展,イコール個人の生活や社会の発展ではない。かまどで夕食のご飯を炊き,暗くなったらろうそくを灯して家族で過ごし9時頃には寝る(もちろん会社や社会もそれに合わせたものにする)という生活もいいものではないか。
科学技術の発展は大きな事故を引き起こす可能性を秘めていると同時に,見方によっては(人としての幸せの在り方を原点に戻って考えてみると)社会全体を後退させていると見ることもできる。
1つは,地球上にはもっと自然放射線の高い所があるとか,放射線量の高い地域の1時間当たりの値よりも病院で受けるCT(レントゲンを連続で何回も撮影をするのような検査機器)のほうが放射線の値が高いといった,さらに放射線量の高い例を持ってきてだから浴びても安全なんですというものである。
もう1つは,様々な事実から自分の都合のよいものを選んで,自己の主張の正当性を高める道具にするというものである。放射性物質はチリのようなものだから原発から離れた地域ほど放射能値は低くなるという事実がる。また,原発周辺や東京のホットスポット,チェルノブイリのホットスポットを見てもわかるように,放射能値の高さは風向きや地形,雨などの天候などが影響するために必ずしも距離と比例するものではないという事実がある。この2つを,学者たちはその時の自分の論にふさわしいほうを選択し,現実とはかけ離れた言葉の世界の中で浮かれ,自己陶酔をする。見ていて滑稽である。研究者とはそんな程度であろう。旧帝大で何十年も原発の安全性をあらゆる面から研究をし,給料をもらい,論文をたくさん書いて賞をもらって喜んできた最終到達点が福島原発の事故である。研究者とはいったい何なのだろうと考えさせられる。
発災以降テレビを見ていると放射能関係の研究者が勘違いをして調子に乗っているように見えるので,反省と自戒の念をいだきつつ現実に即した事実だけを話すようにしてもらいたいと思うのである。
このほど携帯電話が脳に悪影響を与えることが明らかになった。携帯電話は多くの研究者たちの研究の結晶でできたのだろう。これを生み出した研究者は,携帯電話が社会や生活を便利にしたというだろう。しかし携帯電話が普及していなかった30年前の生活と比べて本当に便利な世の中になったのだろうか。その場ですぐに電話ができない30年前,誰か不便を感じていただろうか。固定電話のある場所まで移動をしないで寝ながら話ができることが本当に人間の精神や体(健康)にとってよいのだろうか。携帯が普及することで仕事内容や社会が変わった点も多いが,その変わった点は本当に便利で発展した現象ととらえられるだろうか。研究者たちは余計なもの,人間にとってよくない物を,給料をもらいながら長年研究をし作り出してしまったのではないだろうか。極論すれば,江戸時代など現在よりも以前の人々は不幸を感じながら生きていたわけではあるまいし,江戸時代のままだったら現在も未来も自然豊かな故郷でのんびりと暮らしていけたことであろう。日本中の人々が放射能を気にせず野菜や魚,肉などを食べたり飲んだりし続けられたことであろう。別に月に人が立ったり宇宙にステーションをつくったりする必要もない。科学技術の発展,イコール個人の生活や社会の発展ではない。かまどで夕食のご飯を炊き,暗くなったらろうそくを灯して家族で過ごし9時頃には寝る(もちろん会社や社会もそれに合わせたものにする)という生活もいいものではないか。
科学技術の発展は大きな事故を引き起こす可能性を秘めていると同時に,見方によっては(人としての幸せの在り方を原点に戻って考えてみると)社会全体を後退させていると見ることもできる。