先日、いたずらで首から下を地面に埋められていた犬が救出され、保健所に保護された。少し待って、飼い主が現れなければ処分されるとのことだ。
 また、最近は熊が人里や街中に現れるようになり、射殺されることが多い。しかしある地域では、熊を殺すのはよくない(かわいそう?)ということで、市役所で罠をしかけて捕獲し山に返しているそうだ。
 イルカを殺して食べているということで外国から非難を浴びている地域もある。海が真っ赤に染まるのを撮影し、日本人はひどいとやっている。しかし、鶏だって工場で首をきられあたりは真っ赤になる。サメを殺せば周辺の海は赤く染まる。豚も殺されバラバラにされる。その様子を撮影して、アメリカはこんなひどい国だ、ヨーロッパは残酷だということはナンセンスで誰もそんなことはしない。鯨の問題もそうだが、世界には自分達の文化や習慣が絶対で、それ以外はだめなんだという理屈を持った人々の国が多いということなのだろう。
 外国の人間の話は別の機会にするとして、上に挙げた3つの動物の事件などを思いながら、「命を大切にする」とはどういう定義づけすればいいのだろうと考えてみた。昆虫や動物の中には、仲間を平気で食べるものもいる(共食い)。遭難した人が死んだ仲間を食べて生き延びた事件もあった。これらは望ましくないことなのだろうか。人間は少しだけ他の生き物よりも思考するようになったので自己満足ができる屁理屈をいくらでもつけたりするが、まだそのようになる前の大昔、つまり人間もまだ他の動物とあまり変わらない生活をしていた時のことを想像すると、人間も含めて動物や昆虫などの生物は「生きる」ために生き物を食べることが不可欠で、当然のことであったと考えられる。悪もなにもないだろう。それが日常だった。もちろん、おもしろがったり意味なく生き物を殺したりすことはなかった。屁理屈無しで本質を考えると、何の動物であれ自分達が食べる為に生き物を殺すことは望ましくない行為とはいえないことになるだろうか。
 そうだとすると、犬の命を保健所が奪うことはよくないから、そうならないように方策を考え、実行する必要がある。イルカは食べるためだからいいだろう。熊は人間に危険を及ぼすが食べるため(人間が生きるため)ではないから殺すのは望ましくないので、熊が来ないように方策を考え、実行する必要がある。このようになるだろうか。
 ちなみに、植物も生きているからそれらをとって食べるのも仏教の世界では動物を殺すことと同じで罪としているが、私はそれには反対である。野菜などの植物は動物や生物、魚類などと違って脳、あるいは神経がない。伸びたりするが、同じ範疇の生き物ではない。人が殺して良いとか悪いというのは、痛さや仲間を失う悲しさに思いを寄せるのでかわいそうだという心理が働くからである。だから植物は別物である。山林を切って木がかわいそうとか稲ね刈りは残酷だというのには違和感がある。