大学の教員(教授や準教授,講師など)の応募資格を見ると,論文3点以上などというものが目立つ。論文での判断が大きいようだ。大学を卒業してそのまま院に進み,助手などをしている人や講師,準教授などに就いている人が応募をし,採用となっていくのだろう。
教育系でいうと,たった一度も子ども達に授業や生徒指導を行ったことのない人が,「教師論」や「授業論」,「生徒指導論」などを説いていくことになる。そんなことがあっていいのだろうか。実際,学校現場の経験が全くない27歳の若い研究者(教育機器の研究をしていて,教育原理や教師論,教育方法論,教育課程論などには触れたこともない人。論文は3点以上ある。)が,論文があリその内容がよいということで,ある大学に採用になって「教師論」や「学習指導法」などの教職関係の授業をいろいろ担当している人を知っている。
分野によっては,論文だけで大学教員にするというのはよくない。局所的な机上の論文だけで大学教員にするから,そのような大学教員に育てられた教師の卵たちの資質や指導能力が高まらず,小・中学生の学力が高まらなかったり教室が荒れたり教師自身が犯罪を犯したりしていくのではないだろうか。
学校教育系の大学教員として,現場経験40年といった百戦錬磨の教育指導者が,学校教育から少し的がはずれた論文が数点あるだけの現場未経験者の学生のような若者に劣るのだろうか。信じられないことだ。
博士論文審査は,第三者機関ではなく身内の教授達が判断を下す。審査者を複数にしてカモフラージュしているがみんな身内なので審査者がたとえ何十人いようと関係がない。しかも,博士論文でさえほとんど指導担当教官が書かせたようなもの(書いたもの?)や英訳をさせて出来上がりというのもある。博士など偽者だらけである。
分野によるだろうが,特に学校教育系の世界では学術論文第一主義はもう終わりにしたほうがよい。
教育系でいうと,たった一度も子ども達に授業や生徒指導を行ったことのない人が,「教師論」や「授業論」,「生徒指導論」などを説いていくことになる。そんなことがあっていいのだろうか。実際,学校現場の経験が全くない27歳の若い研究者(教育機器の研究をしていて,教育原理や教師論,教育方法論,教育課程論などには触れたこともない人。論文は3点以上ある。)が,論文があリその内容がよいということで,ある大学に採用になって「教師論」や「学習指導法」などの教職関係の授業をいろいろ担当している人を知っている。
分野によっては,論文だけで大学教員にするというのはよくない。局所的な机上の論文だけで大学教員にするから,そのような大学教員に育てられた教師の卵たちの資質や指導能力が高まらず,小・中学生の学力が高まらなかったり教室が荒れたり教師自身が犯罪を犯したりしていくのではないだろうか。
学校教育系の大学教員として,現場経験40年といった百戦錬磨の教育指導者が,学校教育から少し的がはずれた論文が数点あるだけの現場未経験者の学生のような若者に劣るのだろうか。信じられないことだ。
博士論文審査は,第三者機関ではなく身内の教授達が判断を下す。審査者を複数にしてカモフラージュしているがみんな身内なので審査者がたとえ何十人いようと関係がない。しかも,博士論文でさえほとんど指導担当教官が書かせたようなもの(書いたもの?)や英訳をさせて出来上がりというのもある。博士など偽者だらけである。
分野によるだろうが,特に学校教育系の世界では学術論文第一主義はもう終わりにしたほうがよい。