今日からお盆である。多くの人は、お墓にお参りに行くであろうが、その人たちも別に仏教を本格的にやっているわけではないだろう。日本人は、多くの外国とは異なり、特定の宗教を信じ込んではいない。
100年ほど前、アメリカの人は、日本では宗教がなくてどうやって人の道などを学校で教えているのか、とても疑問であったらしい。このことを知って、逆に、アメリカでは、宗教が人の道を教える教科なんだとはじめてわかった。
アメリカのこの疑問に、5千円札の新渡戸さんは、日本には武士道から引き継がれている礼儀作法、心構えなどがあり、それらを学校で教えていると、アメリカに説明したそうだ。なるほど今の道徳も、基本は武士道からきているのかもしれない。
しかし、宗教と武士道の大きな違いとして、宗教はその人にとって絶対であるということがある。そのため、宗教の教えのためには戦争でもやる。人も殺す。
大学生の頃、創価学会に入っている知り合いがいた。その人の両親も創価学会のため、生まれる前から創価学会に入ることは決まっていて、小さい頃から毎日家においてある小さな銅像にお祈りをしているそうだ。そういう人は、創価学会を辞めたり宗教を変えたりといったことはない。その知り合いに、もし創価学会で一番偉い人(代表者?)が、「社会情勢が変ったので、平和のために国会を襲撃して国会議員を全員殺害しなければならない。」と命令したとしたら襲撃するかと聞いたことがあった。その知り合いは、創価学会の偉い人は決してそんなことは言わないといい続けて、私の質問には答えなかった。しかし、そういう場合、どのように行動するのか知りたい私は、2時間ほど粘って質問し続けた。そして、ようやく引き出した回答は、「その場合、自分はどうするかわからない。」であった。他の宗教の人もそうであろう。だから、私は、本格的に宗教を信じ込んでいる人(出家者というのであろうか)とは、親しく交わらないようにしている。
しかし、目的が異なる新興宗教は別にして、仏教やキリスト教、イスラム教など、主だった宗教には、いい教えもたくさんある。信心深くない日本人は、別に特定の宗教を信じる必要はなく、それぞれの宗教の良い教えを部分的に学んで自分自身の役にたたせていけばよいと思う。
ちなみに私は、高神覚昇氏の「般若心経講義」を時々読み返している。これは仏教の枠を超えて、いろいろな宗教や道徳、言い伝えの良いことも書いているので好きである。
今日は、静かにお墓参りに行ってくるつもりだ。
100年ほど前、アメリカの人は、日本では宗教がなくてどうやって人の道などを学校で教えているのか、とても疑問であったらしい。このことを知って、逆に、アメリカでは、宗教が人の道を教える教科なんだとはじめてわかった。
アメリカのこの疑問に、5千円札の新渡戸さんは、日本には武士道から引き継がれている礼儀作法、心構えなどがあり、それらを学校で教えていると、アメリカに説明したそうだ。なるほど今の道徳も、基本は武士道からきているのかもしれない。
しかし、宗教と武士道の大きな違いとして、宗教はその人にとって絶対であるということがある。そのため、宗教の教えのためには戦争でもやる。人も殺す。
大学生の頃、創価学会に入っている知り合いがいた。その人の両親も創価学会のため、生まれる前から創価学会に入ることは決まっていて、小さい頃から毎日家においてある小さな銅像にお祈りをしているそうだ。そういう人は、創価学会を辞めたり宗教を変えたりといったことはない。その知り合いに、もし創価学会で一番偉い人(代表者?)が、「社会情勢が変ったので、平和のために国会を襲撃して国会議員を全員殺害しなければならない。」と命令したとしたら襲撃するかと聞いたことがあった。その知り合いは、創価学会の偉い人は決してそんなことは言わないといい続けて、私の質問には答えなかった。しかし、そういう場合、どのように行動するのか知りたい私は、2時間ほど粘って質問し続けた。そして、ようやく引き出した回答は、「その場合、自分はどうするかわからない。」であった。他の宗教の人もそうであろう。だから、私は、本格的に宗教を信じ込んでいる人(出家者というのであろうか)とは、親しく交わらないようにしている。
しかし、目的が異なる新興宗教は別にして、仏教やキリスト教、イスラム教など、主だった宗教には、いい教えもたくさんある。信心深くない日本人は、別に特定の宗教を信じる必要はなく、それぞれの宗教の良い教えを部分的に学んで自分自身の役にたたせていけばよいと思う。
ちなみに私は、高神覚昇氏の「般若心経講義」を時々読み返している。これは仏教の枠を超えて、いろいろな宗教や道徳、言い伝えの良いことも書いているので好きである。
今日は、静かにお墓参りに行ってくるつもりだ。