かなり前、小学校において、豚に名前をつけて数年間ペットのように学級で飼い、かわいがらせ、みんなでお世話をさせ、その上で最後に食肉業者に連れて行くところを子ども達に見せて終わることを授業としてやっていた現佛教大学の助教授の行為は虐待であり絶対に許されない。食用の牛を飼育している慣れた大人の牧場主でさえ、名前をつけることは絶対にしないそうである。かわいがって育てている家族同然のペットの犬などを、食用のために業者に渡すようなものである。犯罪者と言うより精神異常者の行動だと思う。普通の人では到底できない。

 子ども達が受けたショックは計り知れなく、心に受けた傷は一生消えない。大人になってからも悲しく嫌な思い出として時々思い出すことだろう。この人物以外が担任だったら…、と子ども達もその親たちも悔やみきれない思いではないだろうか。その助教授の小学校教員時代に授業を受けてきた当時の子どもや親たちの現在のインタビューをテレビで見た。みな口ごもってはっきりと教師への批判を言わないが、長い年月を経た今でも当時の衝撃を引きずり、気持ちが揺れ動いて生活を送っていることが伝わってきた。私は、この助教授を保護者か教育委員会が告訴して、警察が逮捕してもよいくらいの事案だと思う。しかし、担任教師だったことで遠慮もあり、訴えることはできないだろう。裁判沙汰にしたら、自分の子どもへ与えるショックもさらに大きくなってしまう。結果的に、彼は立場を利用してうまく逃げおおせた。

 この実践を肯定している人々は、残酷なことだが現実のことだからあの実践はしかたがない、あるいはとてもよかったという。そのように言う人々は、自分の子どもがこの学級にいて同じ経験をさせてやりたかったと言えるだろうか。現実なら子どもや大人に何を教えても、何を見せてもいいとはいえない。たとえ現実であろうと、食用の牛や鳥をと殺している工場や人の死刑執行の様子を話したり見せたりはしないだろう。大人でさえ強いショックを受け、死ぬまで忘れることはできなくなる。家庭で名前を付けてかわいがって育てている羊や鶏のペットを事情によっては誰かに食べさせることができるのは、日本でこの佛教大学の病的な助教授だけである。社会の中に、少なくとも教育の世界の中に彼をおいておくことは、非常に危険だと思う。

 この助教授を現在雇い、将来の教師の卵たちに指導をさせている大学も異常だ。文科省もどのような経歴を持った人が大学で学生達に教えているか定期的にチェックをする必要がある。言い方は悪いが、三流大学任せでは論文だけで教員を採用してしまい、教育者として不適格な人物もひっかけてしまう。決して学歴と論文だけで、未来の教員を育てる人物を選んではいけない。
 
 当時、この異常な張り切り先生を止めることは、どの先輩教師もできなかった。みな錯覚に陥り、職員室の雰囲気がそちらに流れたのだろう。能力や経験はないが、声が大きくテキパキしている理屈っぽい教師が、適当ではない方向に行事や校内研究などをもっていってしまうことはよくあることだ。だから、校長の的確な総合判断、英断が非常に重要なのである。校長は様々な局面において、本当に子ども達にとってプラスになるのか、大きな悪影響はないかを十分に検討し続ける責任がある。そもそも、小学校で子ども達が飼育する生き物として豚は適切であったのか、小学校において食用として(の可能性を残しながら)生き物を飼育させる活動は適切であったのか、その点の判断についても責任は当時の校長にあるだろう。