話の途中に、言葉が止まったり、いい間違えたりすることを、「かむ」といったりする。私が聞くようになったのは、ここ5年くらいで、それ以前は1度も聞いたことが無い言葉だ。
はじめて聞いたのは、あるお笑いの人が言ったもので、それから他のお笑いの人やバラエティ系アナウンサーなども言うようになり、今では一般の人たちも使いながら笑うようになった。
わたしは、この「かむ」という言葉を用いたり、用いながら笑う習慣には反対である。老化現象で髪の毛が薄くなった人を「はげ」と言ったり、笑ったりする習慣にも反対である。足の不自由な人をみて笑ったり、腰が曲がったお年寄りを指差して笑ったりする人がいるとしたら、それにも反対である。
エスキーモー人には、吃音の人はいないそうである。それは、エスキモー人の世界には、いわゆる「かむ」ということを気にするという感覚が無いからだそうだ。
お笑いの人は、社会をプラスにしていくような習慣を作れるような人たちではない。これを聞いて、笑いは世の中を明るくしていると反論するならば、いじめやたたき、けなし、からかい、嘲笑、ひやかしなど、人間関係でいやな悪いあらゆることを日本の人たちに教育し続けているような笑いは本当の笑ではなく、必要ないと言いたい。
日本では、お笑いの人たちの影響力が大きすぎる。お笑いの人たちに、世論や社会が左右されないようにしたいものである。
はじめて聞いたのは、あるお笑いの人が言ったもので、それから他のお笑いの人やバラエティ系アナウンサーなども言うようになり、今では一般の人たちも使いながら笑うようになった。
わたしは、この「かむ」という言葉を用いたり、用いながら笑う習慣には反対である。老化現象で髪の毛が薄くなった人を「はげ」と言ったり、笑ったりする習慣にも反対である。足の不自由な人をみて笑ったり、腰が曲がったお年寄りを指差して笑ったりする人がいるとしたら、それにも反対である。
エスキーモー人には、吃音の人はいないそうである。それは、エスキモー人の世界には、いわゆる「かむ」ということを気にするという感覚が無いからだそうだ。
お笑いの人は、社会をプラスにしていくような習慣を作れるような人たちではない。これを聞いて、笑いは世の中を明るくしていると反論するならば、いじめやたたき、けなし、からかい、嘲笑、ひやかしなど、人間関係でいやな悪いあらゆることを日本の人たちに教育し続けているような笑いは本当の笑ではなく、必要ないと言いたい。
日本では、お笑いの人たちの影響力が大きすぎる。お笑いの人たちに、世論や社会が左右されないようにしたいものである。