よく一般の人が何かを見て、「○○はだめだ」などという。例えば、ある市が判断を誤り、巨額な税金を無駄にしてしまった時に言ったりする。それに対して、「それならお前がやってみろ!」という言い方をする人がいる。特に、だめだといわれた当人や、まじめな番組をやっているお笑い芸人などが感覚的によく使う。
しかし、できない人が他人のことを言うのはおかしいという考えは変である。例えば、一般市民の蕎麦屋さんは、市の道路や施設の実情、土地の価格や周辺地域の就業人数など関係する事柄についての詳しい数値とその見方、国や地主などとの関係などをわかっているわけではない。市の人しかわからない。だから、蕎麦屋さんがやってみろといわれてもできない。多くの資料が無く、これまでのいきさつもわからない市役所以外の人にはできないのである(蕎麦屋さんの仕事もある)。だからといって、市や国の人の判断ミスや怠慢によって莫大な借金を背負ったりしたことを非難してはいけないというのはおかしい。常識的、あるいは他と比較して標準的な視点から判断して、他人のことを言うことは正当なことである。評論家の価値は非常に大きいのである。
同じようなことに、具体的なテレビ番組をさして「○○は○○で、おもしろくない」というと、「じゃあ、みなきゃいい!」というやりとりを聞くことがある。これも短絡的な論法である。
このように、ある意見に対して、お決まりのおかしな返答というのがいくつか存在する。このようなものは、おそらくはじめはお笑いの人か頭の悪い頑固な市議会議員などが使い、それが一般的になってしまったのだろう。様々な言い方は、個々人がよく考えて使うようにしたい。
しかし、できない人が他人のことを言うのはおかしいという考えは変である。例えば、一般市民の蕎麦屋さんは、市の道路や施設の実情、土地の価格や周辺地域の就業人数など関係する事柄についての詳しい数値とその見方、国や地主などとの関係などをわかっているわけではない。市の人しかわからない。だから、蕎麦屋さんがやってみろといわれてもできない。多くの資料が無く、これまでのいきさつもわからない市役所以外の人にはできないのである(蕎麦屋さんの仕事もある)。だからといって、市や国の人の判断ミスや怠慢によって莫大な借金を背負ったりしたことを非難してはいけないというのはおかしい。常識的、あるいは他と比較して標準的な視点から判断して、他人のことを言うことは正当なことである。評論家の価値は非常に大きいのである。
同じようなことに、具体的なテレビ番組をさして「○○は○○で、おもしろくない」というと、「じゃあ、みなきゃいい!」というやりとりを聞くことがある。これも短絡的な論法である。
このように、ある意見に対して、お決まりのおかしな返答というのがいくつか存在する。このようなものは、おそらくはじめはお笑いの人か頭の悪い頑固な市議会議員などが使い、それが一般的になってしまったのだろう。様々な言い方は、個々人がよく考えて使うようにしたい。