福岡の中学2年生の子どもが自殺した学校で、「せいせいした」「別にあいつがおらんでも、何も変わらんもんね」「おれ、のろわれるかもしれん」などと校内で話されていると聞いた。お通夜では、遺族の前で笑いながらひつぎの中の死体を何度ものぞき込む姿も目撃されている。
 人間の中に潜む残酷さに限度はないのだろう。これらの子ども達に限ったことではない。ただ、多くの子ども達は、教育によって理性や道徳も教えられ、残酷さと同時に理性や道徳性も共存している。しかし、子どもによっては、理性や道徳性があまり身につかず、本来人間が持っている残酷さだけが現れてしまう。
 加害者も中学2年生…、遅すぎた。今の時期から私が受け持ったとして、1年間かけても一般的な子ども達のところまで心を育てる自信がない。子は親の鏡という。加害者の親にも欠点があるのだろう。それはおそらく今後も続くので、多くの規制がある学校だけでがんばっても、なかなか先が見えてこない。自分達はお手上げだから学校に全て任せ、何か起きたら全責任を教師に押し付けてしまうというのは、あまりにも酷というものだ。
 学校より、少年院のような有無を言わせず強制的に教育をしていく場のほうが、この子達にとって本当によいと思うのである。様々な子どもがいる。それに合う様々な学校があっていいと思う。一般の中学校においても、個性尊重、興味・関心、自由、ほめて認めて、子どもの話をじっくり聞こう!など、立派な言葉もほどほどにしたほうがよい。