いじめたいという気持ちはなくなるのだろうか。その気持ちをなるべく出ないようにはできるが、消すことはできず、したがっていじめを根絶することはできないように思う。2歳~7歳位までの子どもは特にわがままであることは誰でもが知っている。それを家庭や学校での教育によって少なくする(表に出ない
)ようにしている。人間は野生動物と同じように、自分が生き残っていくために自己中心性(というか生きるための自分中心の行動)が本能としてあるのではないだろうか。
もしそうであれば、人は子どもであろうと大人であろうと、他人を蹴落とし自分が生き残りたいという気持ちは、DNAに組み込まれていることになる。それに強く左右される精神(気持ち・性格)に、学校で教わった道徳が弱く点在するように付着している程度のように感じる。
しかし、いじめを「他人の嫌がること」と定義した場合、学校でのいじめをすぐにとめる手立てはある。例えば、不快に感じた場合、相手にそのことを伝える。相手はすぐにやめて心から謝る。もしそれをしない場合は教師に言う。教師は、いじめをした子どもに謝るように指導をする。次にいじめた後に謝らない場合(同じことを繰り返した場合)、あるいはいじめられた子どもが教師に報告したことでいじめた子どもが陰口や仲間はずれを始める場合は、いじめられた子どもが教師に言うように決め、その時点で停学の対象とする、などといった事務的なアルゴリズムをつくり、一般のルールを守るようにそのアルゴリズムを徹底させることで、いじめがおきても、すぐに止めることができそうな感じである。感情や気持ちの指導をしても、DNAには勝てないように思う(まったくするなということではない。道徳は今までのように行う)。いじめ解消のための指導は、理屈抜きの習慣化(生活訓練)が重要だと思う。
)ようにしている。人間は野生動物と同じように、自分が生き残っていくために自己中心性(というか生きるための自分中心の行動)が本能としてあるのではないだろうか。
もしそうであれば、人は子どもであろうと大人であろうと、他人を蹴落とし自分が生き残りたいという気持ちは、DNAに組み込まれていることになる。それに強く左右される精神(気持ち・性格)に、学校で教わった道徳が弱く点在するように付着している程度のように感じる。
しかし、いじめを「他人の嫌がること」と定義した場合、学校でのいじめをすぐにとめる手立てはある。例えば、不快に感じた場合、相手にそのことを伝える。相手はすぐにやめて心から謝る。もしそれをしない場合は教師に言う。教師は、いじめをした子どもに謝るように指導をする。次にいじめた後に謝らない場合(同じことを繰り返した場合)、あるいはいじめられた子どもが教師に報告したことでいじめた子どもが陰口や仲間はずれを始める場合は、いじめられた子どもが教師に言うように決め、その時点で停学の対象とする、などといった事務的なアルゴリズムをつくり、一般のルールを守るようにそのアルゴリズムを徹底させることで、いじめがおきても、すぐに止めることができそうな感じである。感情や気持ちの指導をしても、DNAには勝てないように思う(まったくするなということではない。道徳は今までのように行う)。いじめ解消のための指導は、理屈抜きの習慣化(生活訓練)が重要だと思う。