中学2年の子どもが自殺した事件で、いじめた子どもの何人かが自殺した子どもの親の所に行って、「僕も悪いことを言ったかもしれない」、「引き金は担任だった」、などと言って謝罪したそうである。本当にこれが謝罪なのだろうか。本当に担任の言動が引き金になったのだろうか。
 泥仕合、責任のなすりつけあいの様相を呈してきた。県教委や文部科学省まででてきて、さらに問題を複雑にしている。
 セクハラは、同じ行為をされたとしても、好きな人からだったらそれは不快には感ぜず、セクハラとはならない。つまり、客観的な行為で判断はできない。それと同じように、いじめやからかいも、その子にとってどう感じるかは子どもそれぞれである。どの行為が「死」まで考えさせるくらいのいやな行為だったのか、今からでは知る由もない。一番確実にお金を取ることができ、安心して責めることができそうなそうな所に大きな責任を負わせようとしているとしたら、根本的な解決にはならないであろうし、自殺した子どもも浮かばれない。
 自殺に追い込んだ事件と、学校からいじめをなくす議論を分けて進めていったほうがよい。事件は警察に任せ、裁判でからかいやいじめの行為の軽重を客観的に判断してもらうしかない。当事者や世間が、思い込みや自分の尺度をいくら叫んでも意味がない。
 裁判とは別に、学校や地域といった集団の中でのいじめをどのように定義づけ、どのようにして減らしていくかという一般論については、親や子ども、教師、研究者、一般市民などから広く意見を聞いて、よい方法を講じていけばよい(ワイドショーのコメンテーターのような扇動者の意見は参考にしないほうがよい)。