給食の時、「いただきます」という。誰に言っているのかよくわからなかったので調べてみたら、神にお供えしたものを人間の頭のいただきに下ろして、みんなで食べたところから来た言葉のようである。
公立の学校で、特定の宗教を尊重するような行為はよくない。しかし、語源はそうであっても、今はそこから離れて単なるひとつの形式となっているから問題は無いと(現在使っている人々は)正当化するであろう。それならそれで別にかまわないのだが、その場合、どのような意味づけをすればよいのだろうか(子ども達に説明する時など)。
一生懸命に調理をしてくれた調理員さんに対してのお礼といえばよいのだろうか。一生懸命にお米を作ってくれた農家の人に対する感謝といえばよいのだろうか。そうであれば、鉛筆を使う前に、鉛筆工場で一生懸命に働いている人に対しても何か言わなくてはおかしい。
それとも、命あるもの(野菜や米など)を殺し利用することに対してのお詫びや感謝の気持ちといえばよいのだろうか。そうであれば、花を摘む時にも言いなさいと子どもに言いたくなる。
食事の前に、同じ意味の挨拶をする国は、あまり無いのではないだろうか。やはり、「神の国日本だから言うのだ!」と言われると、私は素直に納得できる。
家庭なら自由でかまわないが、やはり公立学校では強要しないほうがいいのではないだろうか。また、似たようなことで、「登校」や「下校」といった言葉も普通に使われているが、意味や使い始めた時代を考えると、「長年使っていたから」という理由ではすまないような気がする。
公立の学校で、特定の宗教を尊重するような行為はよくない。しかし、語源はそうであっても、今はそこから離れて単なるひとつの形式となっているから問題は無いと(現在使っている人々は)正当化するであろう。それならそれで別にかまわないのだが、その場合、どのような意味づけをすればよいのだろうか(子ども達に説明する時など)。
一生懸命に調理をしてくれた調理員さんに対してのお礼といえばよいのだろうか。一生懸命にお米を作ってくれた農家の人に対する感謝といえばよいのだろうか。そうであれば、鉛筆を使う前に、鉛筆工場で一生懸命に働いている人に対しても何か言わなくてはおかしい。
それとも、命あるもの(野菜や米など)を殺し利用することに対してのお詫びや感謝の気持ちといえばよいのだろうか。そうであれば、花を摘む時にも言いなさいと子どもに言いたくなる。
食事の前に、同じ意味の挨拶をする国は、あまり無いのではないだろうか。やはり、「神の国日本だから言うのだ!」と言われると、私は素直に納得できる。
家庭なら自由でかまわないが、やはり公立学校では強要しないほうがいいのではないだろうか。また、似たようなことで、「登校」や「下校」といった言葉も普通に使われているが、意味や使い始めた時代を考えると、「長年使っていたから」という理由ではすまないような気がする。