昭和22年木更津に生を受ける。
男ばかり5人兄弟の4番目である。
父親は戦前は、東京で呉服屋で働いていたと言う。空襲で店を焼かれ、母の生家のある栃木県葛生町まで、大八車を引いて避難したらしい。
戦後、親・兄弟の住む木更津に帰り、親の敷地にバラックを建て、親子7人がまるで折り重なるように寝起きしていた。
父は、米軍のMPとして働いていた。米軍基地は暫時縮小されていったが、定年まで勤めていた。
男ばかりだったので競争で食べていたので、親は大変だったと思う。
バラックの前には、鳥小屋があり鶏を何羽か飼っていた。卵を良く産んでくれた。産まなくなるとつぶして鶏肉となった。鳥屋のオジサンが時々ひよこを売りに来た。小さなひよこが良く後を付いてきて、可愛かったのを覚えている。
歩いて15分ぐらいの所に国有地を借りて畑を作っていた。親父は休み明けに家のし尿を天秤棒で担いで肥料に撒いていた。
振り返って見れば本当にご苦労様でした。正に自給自足の時代でした。
男ばかり5人兄弟の4番目である。
父親は戦前は、東京で呉服屋で働いていたと言う。空襲で店を焼かれ、母の生家のある栃木県葛生町まで、大八車を引いて避難したらしい。
戦後、親・兄弟の住む木更津に帰り、親の敷地にバラックを建て、親子7人がまるで折り重なるように寝起きしていた。
父は、米軍のMPとして働いていた。米軍基地は暫時縮小されていったが、定年まで勤めていた。
男ばかりだったので競争で食べていたので、親は大変だったと思う。
バラックの前には、鳥小屋があり鶏を何羽か飼っていた。卵を良く産んでくれた。産まなくなるとつぶして鶏肉となった。鳥屋のオジサンが時々ひよこを売りに来た。小さなひよこが良く後を付いてきて、可愛かったのを覚えている。
歩いて15分ぐらいの所に国有地を借りて畑を作っていた。親父は休み明けに家のし尿を天秤棒で担いで肥料に撒いていた。
振り返って見れば本当にご苦労様でした。正に自給自足の時代でした。