なぜ建築が好きなのか。
私にとって建築やインテリアを見ることは逃避だ。
村上春樹が小さい頃に小説の世界に逃げ込んだように、
美しい建築を見ているだけで束の間うんざりしたことを忘れられる。
別に美しい建築を見ていなくても、ただの建物だとしても「ここの設備はこうなっているのか」とか、「なぜこのディテールにしたんだろう」とかそういうことを考えていると、まあ暇つぶしになって、それも一種の逃避になる。
無機物を相手とすると人間と違って何も語りかけてこないし、押し付けてもこないし、ただこちらが勝手に解釈するだけでよいから楽だ。
とはいえ私が最も興味があるのは人間なんだと思う。
この人はなぜこういう行動をとるのだろうとか、そういうことは考えたくなくても嫌でも考えてしまう。
今この人は快適だろう、不快だろう、この場を支配している空気はなんだろう、なぜそうなっているのか?
多分人に興味がある(=好きというわけではない)のは一種の才能だと思っている。
夫のような人に興味がない人間を見ることで私のこれも才能なんだなと気づいた。
才能というのは自然にできてしまうことだと思う。考えたくなくても他人について考えてしまう。
ただ、そこにHSP的気質が相まって、一つ一つのダメージがでかい。
苦手な人間がいたらそれだけでものすごくダメージを受けるし、
相手の快不快を感じるからこそ行動しづらい。
人に興味があってHSP的気質だと、他人が10嫌くらいでもそれを100くらい嫌だと感じるので、
他人の不快さにもことさら慎重になる。意外と他人はちょっと不快くらいにしか考えてなかったりするのだが。
というかHSPだから他人に興味持たざるを得なくなったのかなと思う。
いろんな不快な出来事が起きた時にずっと不快で当たり散らすわけにもいかないので、なぜこの人はこういうことをするのか?と考えざるを得ない。
快適ならば物事について深く考えない、不愉快だし、それを感情的にあたりちらせないから仕方なく論理でなぜだろうなと考えるしかないのだ。ソクラテスが悪妻が故に哲学者になったみたいに。
話は戻っていろんな事象の中で建築が好きというのは、無機質だけどもそこに人が関与しているからだと思う。
例えばよくある好奇心の強い子供みたいに、宇宙が好きとか身近な車や虫が好きとか、そういうものには興味が出ず建築になったというのは、まあ後天的に建築学科の人と関わりがあったからというのもあるが
多分根本的に現実考えても自分ではどうにもできなさそうなこと(宇宙みたいな)に対しては考えるだけ無駄だと思うし、
車とか虫とか、「どうしてその原理で動くのか?」みたいなのを小さい頃に少しでも触れてたら興味がわいたかもしれないが
触れる機会もなかったし、多分なぜ?を考える機会を与えられなく、まあただただ何かを与えられてきてその余地がなかったのだと思う。割と両親の教育方針はレールに従って進ませるだけだったのだと思う。少なくとも私に関しては。
そこで成り行きでデザイン系に進み、なんかかっこいいから建築とかに憧れる、でもそこに首をつっこむと意外と面白い、
というようないろんな偶然が重なってたまたま自分の好きなものを見つけられた。
で、また脱線したが話は戻ると、建築は「人の手が加わった無機物」というのが面白い。
無機物だから人間みたいにHSPを傷つけてくることはないし、でもそこには人に思想が絡んでいる。
後天的か先天的か分からないが身につけた人への興味を自分が傷つけられない形で満たしてくれる。
また建築というのは長期で大掛かりなプロジェクトだから、よく考えられた建築はそれだけ長年の思想の蓄積でつくられたものである。
考えないと、あまりいい答えが生まれない。なぜなら感情に支配されて考えたことはただの反応になるし、考えるためにはある程度知識も必要だからだ。
でも時間をかけていろいろ精査してつくりあげられた思想というのは、その時代の最適解になりえたり、何か問題解決できるものになるので生き残る思想は価値があると思っているのだけど、そこで建築というのは現実の形で反映される。
この理論で言うと、建築にも好き嫌いというのは出てくるのが正しくて(なぜなら解は人それぞれ違うから)、すべからく建築が好きというのはおかしいが、それでも部分的にでもある程度好きなんだと思う。
これまで違和感というのをなるべく感じないように封じ込めて、なるべく鈍感になろうと努めていたけど
違和感みたいなものが実は大事だなと、それを感じられるのは恵まれたことだとようやく感じれるようになった(生きづらいが)
家が大好きな人は親から愛情をたくさん受けて自己肯定感が高い人が多いんじゃないかと個人的に思う。
私は家が大好きではない、できれば外に刺激を求めに行くタイプだ。
なぜかというと外の刺激によって心の不足を満たせるからだ。家にいることは退屈だし。
じっと家にいれる人というのは、通常時で心が満たされて平穏なのではないかと思う。
父も家でじっとできないタイプで外にすぐ出るが、それはじっと家にいてもソワソワするからではないか。
家が大好きな人はもちろん外でいろいろ心かき乱されたくないという心理もあるだろうが、外からの刺激<家での平穏 なんだろう。
だからまあ羨ましいなあと思うと同時に、逆説的に外から良いも悪いも刺激を受けて成長機会があるということとも言える。
まあ良い刺激だけならいいけど、悪い刺激が多い気がするけど・・・なので家でじっとして本を読んだりしてるのが正しい気もする。
でももうじっとできない性格になってしまった以上しょうがない。
夫を見てるととても平穏そうで、自己肯定感も高そうだし、ご両親の育て方が良かったのかなと感じる。
一方私は親に対して許せないことなども多かったり、思い出すとイライラすることが多く
多分良いこともしてくれたんだろうが、どちらかというと反面教師と思っている節がある。
あまり尊敬できる類でもない、もしイライラすることがあっても尊敬できる面があればここは尊敬できるよねとなるのだが
正直あまり見当たらない…
私はある時点で、過去の自分は不幸だったなと結論をつけて、そして今もまた過去の自分は不幸だったなと思っていて
その原因を何かのせいとして結びつけざるを得ないし、大体合ってると現時点では思ってる。
まあ生まれつきの自分の性質のせい、というのが一番な気もするけど。
でも子供は環境を選べないし置かれた状況でなんとかするしかないから、その時大人が助けてくれたらよかったのに。
今思い出して腹が立つのは、2段ベッドから幼稚園児の自分が降りれなくなって、泣き叫んでも親は笑うだけで助けてくれないというビデオが残っている。今でも父親はそれを何回も見て笑っている。
普通に考えたら子供が泣き叫んでたら助けてあげるか、助けなくても手伝ってあげるかなのに
大人というのは笑うだけで(それを未だにしているし)何もやってくれないのだ。
だから小さい頃は笑うしかない。泣いてもだめなら笑うしかない。
親のことを尊敬もしないし、愛情も感じないなあと思う。まあ彼らもそれなりに不幸なんだろうけど。