嫌いとはこういうことなのか、という出来事にあった。

 

私はこれまで何かを嫌わないように努めてきた。

もちろん嫌いなものはたくさんある。

それは、客観的に見ても良くない、社会的にも害になる、それでいて自分が嫌いというものだった。

嫌だなとかストレスになるものに対して、客観的に見たらどうか、嫌いな理由は自分のコンプレックスゆえであって不当な嫌いではないのか、

そういうものを精査したり、精査するのも面倒で飲み込んだり(大半は後者)、そういうことをずっとやってきて

でもこのあいだ初めて、嫌いなものは嫌いだ!!!と人様に迷惑をかけない程度に内輪だけで号泣してみたのだった。

そこで、私が「嫌いになるべきではない」と思い込んでいたもののことを実はとても嫌いで

そこに迎合するしかできなかった自分(迎合したわけではないが、心のどこかでできない自分が能力が低いと勘違いしていた)への悔しさとか、嫌いなものを嫌いと言えずに無理矢理合わせなければならないと感じていた自分の不甲斐なさとか、まあこれまで嫌いなものを嫌いと言うことができなかった状況に対して号泣していたのだった。

というか今までは嫌いなものを思い切って嫌い!!!大嫌い!!!と号泣できる状況でもなかったのだ。

それは、その環境を飲み込んでやっていくしかないという逃げ場の見つけられないような条件であったり、そもそも号泣しても許されるような相手がいなかったからだ。まあ一人で号泣してればよいのだが、相手に自分がなぜこんなに嫌なのかを言語化しながら号泣するというのがとても効果的だった。一人で号泣しててもずっとモヤモヤして終わったと思う。まあ相手に迷惑をかけたのは事実なので、今みたいに日記でもつけながら号泣すればよかったのだが。

今の環境は嫌なことがあれば避けることが選択可能だから、思い切って言語化することができたし

思いのたけをぶちまけてもまあこの人は大丈夫だろうという相手がいるからそれができたのだ。

昔に比べたら随分と恵まれた環境だなと思うと同時に、なぜ昔は環境が選べるということもぶちまけて大丈夫な相手もいてくれなかったんだろうという悲しい気持ちになる。正確に言うと本当はあったのだけど、選べることを知らなかったし、家族にぶちまけるには恥ずかしいみたいなそういう感情もあったと思う。でも兄は理解してくれても親は理解してくれなかったんじゃないかな、と思うと悲しくなるけど。でも理解してくれるだろうという兄がいてくれるだけで恵まれているんだと常に前向きに思う。というかそう思わないとやっていけなくない?

 

そしてなぜそれが嫌いか、これまで嫌いとしっかり言えなかったのかということについて。

それは私の負けず嫌いも関係している。

いわゆる集団のノリ的なものがどちらかというと苦手ではあるが、それは自分の能力の低さで克服すべき課題だと思っていた。

まあ集団で集まった時にいろんな人がいて、おとなしい人も好きだし、そういう人の与える安心感とか信頼感とかそれは尊敬できるものであって、ノリが良い人が強者だとは全くもって思っていないが

なんか悔しいとか批判的に思うのなら、負けず嫌いはそれを克服したいと思ってしまうのだ。

でも、能力的なこととかそういう部分でそもそも分の悪い勝負であるし、

それが勝負ですらなく嫌いということに昨日気づいたのだった。

昨日私は泣きながら鈍感なやつが大嫌い!!!とひたすら言っていたのだが、つまり私の定義の中での鈍感なやつが嫌いである。

自分だったらこうするというルールを気にすることなく鈍感に自由に振舞える人ということである。

集団になった時に難しいなと思うのは、自分のノリを出してしまうとそこからあふれる人が出てしまうからであって

だから慎重にならざるを得ないし、気持ち良くいることは難しい。

本当は自分の好きなようにふるまいたいけど、誰かを不快にしてしまう可能性があることを考えると自由には振舞えない。

その中で他の人のことも考えず自由にふるまっている人、そしてそれが自分のノリと合わないと

「ああこの人にあわせないといけないのか…めんどくさ」と疲れる。

でもそういう人が巧妙なのが、ちゃんと仕事をしているという点だ。というか、そういう人は仕事をしないと評価をとれない。

あるいは仕事をしているから感謝せざるを得ないという状況をつくって、あとは自分の好きなようにやるという戦法だ。

正直そういう人間は好きじゃないな。だって仕事をするというコストと、自分の好きなようにふるまえるコストだったら仕事をするコストの方が軽くて合理的だから。自分の好きなように振舞えるのは一番楽だ。

なので、私も仕事してなくても好きなように振舞えばよいのだけど真面目だから引け目を感じてしまう。

場の雰囲気を壊してはいけないなとか、まあ呼んでもらった立場だしホスト側をたてないとな、とか。

でまあそういう貸し借りというかギブテイクの構図を理解するとどこまでが良くてどこまでが悪いとかあるんだけど

 

シンプルにそういうノリが嫌い。

それに尽きるで良いんだろうなとも思った。

だってHSP的な性質で、そういうノリはそもそも無理ゲーなんだと思った。

HSP的な性質なので、情報量が多いとストレスがかかる→つかれる→そもそもパフォーマンスが出せないし、不得意

身体障碍者に走れ、というようなものと同じくらい無理ゲーなのだ。

だから私はそれを頑張って対処しようとして、論理的に物事を組み立て、感情ではなく論理でなんとか打開策をつくれないかと試行錯誤していたのだが、

そもそもが分の悪い無理ゲーなのだ、ということにさっさと気づくというか自分に素直になれればよかった。

自己肯定感みたいなのが高くて、安心できる環境が他にもあればこれは逃げるが勝ちだなと、戦うべき場所ではないなと判断できたけど、そういうものがそろってなかった。

自分の性質を無視して、論理で極力客観的になって戦おうとしていた。

苦手な場所で生きるスキルは、まああると便利というか上手く受け流せるけど

特にそれを克服する必要もなくて「苦手なところで戦わない」としてさっさと逃げれば良かったなと思った。

私が前に友達に話したとおり、適応できすぎるのも問題だなと思う。

なぜかというと無理してしまうから、ストレスを抱え込みすぎてしまうから。

 

では、その分が悪いところでも勝てるようになったらどうなるか?

多分、自分が楽しくないんだと思う。自分がこういうふうに振舞うことで相手は不快な人もいるだろうなあとか。

でも私だったら全方位が気持ち良くなれる方法を模索するだろうなと思う。

自分も楽しく、相手も楽しくなれるところを見つけるだろうなと。

嫌いな人に捕らわれていたけど、そういう人が昨日いたのも事実で、まあだからこそ嫌いな人は困るなあと。笑

まあそういう人がいてくれると、本当にありがたいよねということで、私はその人を見習ってそうなったりしようと、

それが得られただけでも、不快な気持ちはあったけど十分良しとしたいなと思った。

というか嫌いな人というのもなんだか失礼で、苦手な人、という方が正しい。

あのノリが得意ではないんですよね、ということで説明できれば良いかなと思った。

まあでもそれを表に出してしまうと、苦手な人を傷つけてしまうことにもなるし、まあ難しいね。

多分全員がそんなに悪い人というわけでもなくて、みんな自分の置かれた状況で精一杯やってるんだろうけど

まあ、戦うべき場所ではないよね、ということだった。

 

でもなあ、コンフォートゾーンにずっと居続けるのもどうなんだろうとも思う。

矢面に立たないと状況を変えられないので、自分だけが良ければいいみたいなその思想は少し情けないなと思う。

私がやりたいことはその場のルールを変えたいということだ。

それは、自分の思っている理想に近づけたいというのもあれば、ルールそのものを変えることが面白いという好奇心もある。