九 緯度、経度
「お久しぶりに御座います。奏上が事は無事に終えられましたか?」
「はい。お陰様で無事に終える事が出来ました。
改めて感謝申し上げます」
「何の。大槻様の本音はこれからで御座いましょう。
漂流民の体験してきたことは世間に公表せずばなりません。
如何に日本が世界に後れを取っているか。医学医術や天文、地理、測量だけのことに御座いますまい。
大槻様に御話をお聞きしているだけで、時に松原殿(松原右仲)の絵図を拝見させていただくだけで科学にも政ごとの有り様にも、また人々の生活が事においてもオランダやオロシヤ、ヨーロッパに見習うべきことが多くあると実感して御座います。
お手伝いさせて頂く途中、途中にそのように感じております。
月に星、天空をもした物(現代で言う「プラネタリウム」)の大きな造りにも、それを収めて置く家と言うのか、屋敷と言うのか建物にも驚きました」
「さすが間殿に御座る。
それで今に、公表がための条件を堀田様(堀田正敦。堅田侯、幕府若年寄。仙台藩主の後見人。天文方の管理者)に尋ね、教えを賜った所に御座います。
一言でいえば、今も御国の御禁制が事に有る。耶蘇が事には極力触れるなとの事に御座いました。
漂流民が世界を一周して来たとの事は、何ぞ問題にされていない。それ故、(漂流民が)行った先々の気候風土に一層関心が行く所で御座います。
何卒、引き続きご教授下され。宜しく御願い致します」
「はい。それが事で先ずは彼らが行った所、オロシヤが各地の緯度は何度に有ったか。それを改めて詳しく調べて御座います。
持参致しました故、後でゆっくりと見て下され。
漂流民が最初に流れ着いたオンデレーツケの島は、北アメリカも(領)、アリューシャンとか言う島々の中に有り、凡そ北緯五十三度、東に一七三,四度になりましよう。
(オンデレツケ島は現在のアラスカ、ウナラスカ島と言う説もある。そこなれば北緯六十四度になるー筆者)
また、オホーツクは凡そ北緯四十四度。次に行ったヤクーツクは北緯六十二度にもなります。彼らが凡そ八年暮らしたと言うイルクーツクは北緯五十二度二分になります。
蝦夷の根室が北緯四十二度三十一分、松前が四十一度四十三分です。蝦夷は極寒の地と聞いておりますが、松前や根室よりも更に北にあるオホーツクにヤクーツク、イルクーツクですから漂流民が氷だけで出来た島を見た、何カ月もの間、川と言う川は一面凍り付く。旅の途中に何頭もの馬が寒さに遣られて死んだと言うのは確かな事でしよう。
また、防寒を怠れば人でさえ鼻や耳が腐れ落ちるとは言う通りに御座いましょう。
「その緯度とやら、前にも聞きもしたが良く理解出来ぬでの。
吾のような天文、地理に疎い者にも何ぞ分り易い、理解し易い方法とて御座いますまいか?」
「御座います。大槻様も地球全図を御持ちでしょう。
地球は凡そ円、マル。一周は三六〇度。
それを縦横にも四等分すれば一つの範囲、地域が九〇度の中に納まります。真ん中を〇度、赤道と定めればてっぺんに北緯九〇度、下に南緯九〇度との決めごとです。
そして、日本も、オロシヤも地図の上で何処に有るかを知り、赤道の〇度を起点にして北緯何度、南緯何度と計算して表示するのです。
これも天文学の一つであり、西洋の学の教えるところで御座います。
地球図の代わりに、身近に有る卵を使って説明することも出来ます。茹で卵を縦にして上から下に真ん中で切って見て下さい。
黄身が何処に有るかはともかく、卵の外郭一周は三六〇度。切り口のど真ん中に御箸を刺せば、そこが〇度、赤道の在る所になり、右左に御箸の先っぽを見てもそこは〇度に変わり有りません。
てっぺんに北緯九〇度、下に南緯九〇度を示せるのです」
そう言いながら、吾の理解し易いように楕円の卵絵図等を描きもした間殿だ。御箸の頭の方に「東」と書き、先っぽの方に「西」と記す。その二つに経度とも書く。
東西南北が良くに分かる上に、御箸の頭から卵のてっぺんに北緯九〇度の地域、卵の下の方に南緯九〇度の地域を指し示す。
「モスクワは北緯五十五度四十五分、ペテルブルグは五十九度九分にもなります。
緯度を調べているだけでも、よくぞこのような地域に多くの人が住みもする。
御国の根幹を為す都を造った物だと、それだけでも驚きです」
実に感心した。この卵絵図なら北緯何度とオロシヤが事を語るに御屋形様にも説明し易い。東西も然りだ。家族、身内に先ずは試してみよう。
「この卵絵、御箸の刺さる絵。貰っても良いかの?」
笑う間殿だが、吾にはとても大事な絵図だ。
[付記]:お気づきのように、今度からブログランキング、アメーバピック(ブログによる収入)に参加させていただきます。
友人から、作品の出版は何時だと聞かれながら、その予定は無いよ、金も無いからねと言っていた自分でしたが、何度か複数人に聞かれていて、冥途の土産にどれか作品の一つが活字になれば、出版できないかと思うようにもなりました。
また、ブログの投稿に寄って収入を得る方法が有ると知っていても吾に関係ないと思って居たのですが、それによって出版費用の一部を自分で稼げればと妄想を抱くようになりました。
そこで、大槻玄沢抄を書くに、特に環海異聞の項を書くに資料使用許可の面で一番お世話になっている早稲田大学図書館特別資料室に手紙で問い合わせた所、そうなっても学術的扱いとして、従前どおりの手続きで資料特別使用許可、使用料免除とのご返事を頂きました。
そうなると、俄然、小生の妄想もいよいよに膨らんでいます。フオローワーの数も、良いねポイントも余り気にせず執筆していたのですが、気になりだしたのは、そもそも作品がどれ程受け入れられているのかと言う事でした。
そこで、碌に分かりもせずに自分でランキング参加の手続きをしていて、取り合えずの一時保存と勝手に判断して「保存」をクリックしたら、その他の職業ジャンルと、ランキングでした。
安曇野(長野県)に住む息子(娘婿)が、所要が有って実家のある所沢に来ると知って、小説・エッセイのジャンルに変更して貰いました。先週に投稿した二話が人気ブログランキングに入っているとのアメーバ事務局の通知に、ホッとしている自分です。
また、小生の作品を読んで下さっている方々の年齢層は圧倒的に70歳代以上、次に30歳代、40歳代、50歳代、60歳代と続きます。自分の初心の思いとは全く別の結果になっています。次の世代の子供達のために自分の生まれ育った所にも世界に誇れる偉人が居たんだよ、歴史があったんだよと知ってほしくて執筆しているのに、ショックです。
大槻玄沢が開いた塾、芝蘭堂の最初の塾生は杉田玄白の紹介もあったとはいえ、あの米沢藩、上杉鷹山の送り込んだ堀内林哲と宮崎元長と、舘林藩の牧野備後守に仕える佐野立見でした。
大槻玄沢は生涯、堀内林哲と手紙のやり取りをしており、今に残された堀内家文書の中に玄沢の素顔の一端が伺えます。
現代に至っても米沢市の子供達は、あの有名な「為せば成る、為さねばならぬ何事も・・・」を復唱できると聞きますが、大槻玄沢が晩年に至って残した言葉「およそ事業はみだりに興すこと有るべからず、思い定めて興すことあらば遂げずばやまじの精神なかるべからず」と語ることの出来る子供は、一関市に何人いるのでしょうか。
大槻玄沢って誰、何をした人?。今に大槻玄沢抄を執筆している小生でさえ大槻玄沢を知らずに育ったのですから、今に思うと、精神論かも知れませんが残念に思います。
処女作サイカチ物語を書き終え、コピーして読んで下さいとプレゼントした際に、今度は「大槻玄沢を書いてよ」の一言(故・次兄の嫁、義理姉)に始まった執筆ですが、まさかもう五年、こんなにも長く、しかも原稿用紙4000枚を過ぎても書くなんて、自分でも思っても居なかったことです。
今、第28章、この後に第29章「病の床から」、そして第30章、最終章とイメージし、レジメづくりと文献調査に奔走しています。小説ですから、文献調査を大事にしながらも全くの創作部分もあります。殊に大槻家の使用人は記録が御座いませんので、自分の頭の中で時代を反映させるために使用人を活用する、そう思って執筆しています。
昨年の四月に書き終えよう、今年の四月に上梓しようと思いながら、とうとう今年も四月が来てしまいます。後1年、何とか書き終えようと目標の期間の変更です。己の命の方が大丈夫か?と思う事もある今日この頃です。
お読み下さっている皆様、今後とも宜しくお願いいたします。
我が家の小さな庭にも春が来ました、この冬、プランターや寒冷紗等を使って、ほうれん草、春菊、小松菜を買わずに済みました。腹の足しにならないけど肥料代も少なく採算の取れる野菜、方法でした、ほうれん草一束180円の物価高に驚きでした。今、ニラや玉ねぎが色を成して来ました。


