「いやー、成程、流石に大槻殿じゃ。
(漂流民の)聞き取りが事の奏上に限らず、時の世を見ての進言に御座るの。
して、環海異聞の方は?」
「先にもお話したとおり、補遺が稿はお見せする事も、これ以上に御話することも出来ません。
されど、環海異聞が事は当初から文と絵図をもって世間に公表したいと堀田様に相談の上に纏め、書き記している物に御座います。
先の奏上が事(北辺探事)に、オロシヤは耶蘇を宗旨とする国と語り、耶蘇(教)が事を少し詳しく書きもしたれば堀田様にお叱りを頂いております。
国は今も耶蘇(教)は御法度。それ故、主に後々何ぞ迷惑が掛かってはならぬと仰せでした。最もな事に御座います。
(環海)異聞が原稿は、出来たれば先ずは堀田様の検閲を受ける約束に御座います。
今、(環海異聞の)出来は八分所に有りますが、遅筆であり三月も末あるいは四月にも上梓できれば良いかと思っても御座います。
(環海)異聞は、寛政五年癸丑(一七九三年)の暮れ、江戸に向かっていた石巻の御用船若宮丸が(仙台)藩の廻米等を積んだまま岩城沖(福島県の沖合)で冬の嵐に遭って難破したとそこから書き起こして御座います。
漂流すること数カ月、甲寅(一七九四年)の六月に北のオンデレーツケと言う島に漂着した。病と心労が重なり、間もなくに船頭、平兵衛が一番最初に亡くなった。残る十五人は凡そ一年その島に滞留したと記して御座います。
翌年、乙卯(一七九五年)四月。十五人は北国の海の獣の毛皮を商売とする船主の世話でオホーツクというオロシヤが本土に上陸することが出来たのでした。
その船主は帰国を望む漂流民が心を知りもしたでしょうが、オロシヤには何処の国の者に有ろうと遭難した者を救う制度が有って世話した者に幾ばくかの褒賞金も出るらしいのです。
漂流民は短い逗留の後、八月から翌年、丙辰の年(寛政八年、一七九六年)までに三回に分けてオホーツクを出立し、ヤクーツクを経て、イルクーツクに至っています。
病でヤクーツクに残った一人(市五郎)「を除き十四人、皆々がイルクーツクで再会したのは丙辰の年の十二月(一七九七年一月)でした。
オロシヤの冬は八月も半ばから始まると聞きもしました。それだけでも驚きですが、真冬に旅をした組は恐ろしいばかりのオロシヤの冬を体験しています。
(オロシヤの)王様はサンクトペテルブルクと言う所に住んでいるのでした。イルクーツクから旧都と聞くモスクワを経て新都ペテルブルグまで、日本の距離が計算にても凡そ一四〇〇里も離れていると聞きもしました。オロシヤが如何に広大な土地にあるか分りもし得ましょう。
何里離れていようと、十五人は直ぐにもペテルブルグに向けて出立したかったです。されど、王様の突然の死等によって彼らは実に八年もの間、イルクーツクで生活することになったのでした。
そのイルクーツクで、先に遭難した伊勢の白子の船(神昌丸)、大黒屋光太夫等と一緒の船に乗っていて遭難した、事情が有ってオロシヤに残ったと語るニコライ新蔵という者や庄蔵という者、また、大黒屋光太夫等を根室まで送り届けたと言うトボロコフと言う通訳や越中侯が信牌を与えたと言う使節アダム・ラクスマン、その親、キリロ・ラクスマンの世話にも成っていたのです。
イルクーツクで一人(吉郎次)が死に、ニコライ新蔵が同伴でサンクトペテルブルクに向かったのは十三人でした。されど、その途中にも病気等で落伍した者が三人(左大夫、銀三郎、清蔵)出て、結局、長旅の後ペテルブルグに着いた漂流民は十人でした。
ペテルブルグではガラフと言う名の大臣の家にお世話になり、その大臣が手配で王様に謁見することが出来たのです。
十人が内、四人(善六、辰蔵、民之助、八三郎)は既に耶蘇に改宗していたのでしたが、残る六人の中で何と二人(茂次郎、巳之助、)が王様を前にしてオロシヤに残りたいと申し出たのです。日本に帰りたいと最後まで訴えたは津太夫、左平、儀兵衛、太十郎の四人だけだったのです。