二十二 昌永が訃報
心配をするは親なればか。二十三(歳)にもなる倅(玄幹)だが、今日は何をしている、元気に在るか、シッカリお役目を果たしているかと朝に起きれば心配し、遠い蝦夷地を思いもする。
倅を長崎留学に送り出した時には側に民治が居た。民治があの北陸金沢で麻疹に罹った玄幹を凡そ一ケ月も看病したのだ。此度は医者仲間の内の一人として(蝦夷に)行ったれば、万が一の時に面倒を見て呉れる同僚が居るだろう、桑原殿(桑原隆朝純(純明))の御子息(桑原如則、長男)も同行している。
心配ないと思えども、そもそも此度はお役目を果たす事が第一なのだ。暑い盛りを過ぎたとても、徒歩にあって疲れたと訴える者や、慣れぬ海を渡るに気持ちが悪くなったと訴え出た藩士が居ただろう。しっかりと対処出来ているのか。堀田様の健康維持を見守り出来ているかと、己には何も出来ない、気にしても仕方がない事を思いもする。
三日前(文化四年九月十六日。一八〇七年十月十七日)にも成るか。観心院様の三回忌の法要が仙台にてもこの江戸屋敷にても盛大に行われた。
参加するに、質素倹約と窮民救済を常に心にしていた観心院様を思うと、果たして御本人はこのような大きな法要を望んでいたろうかと考えもする。
寛政の世に、藩においてもいち早く越中侯(松平定信、白河侯)が窮民対策や、(赤子)間引き禁止の令に賛同し、それがために二万両もの個人資産を拠出して貧しい家庭にお米を配ったお方だ。
つらつらここ数日を思って居るに、田舎言葉を耳にした。
「旦那様、神田小川町の土浦藩からの使いだと言う者が来たべ(来ております)。
お部屋の方にお通すすていがんべが(宜しゅう御座いますか)」
末吉の縁故に有る者だと、我が家に来て二月に成ろうか。まだズーズー弁が残る佐助だ。何と言う方だと聞くに、首を横に振る。
「姿格好は如何にある?」
「へえ、お武家様にごぜゃ―ます」
「一人か?」
「ヘえ」
「通すが良い」
語りながら、末吉やお京は如何した、タホ(妻)は何していると思いもする。
部屋に入るにも、失礼致します、と襖の外から丁寧な声が有った。
何と言う事だ、これが驚かずにいられようか。真か、真かと知らせに来た御仁(豊田藤馬、昌永の友)に確かめながら昌永の年齢を思った。確かまだ三十七、八(歳)か。
御上(幕府)の命を受けた「魯西亜国志」」の翻訳を終え、吾の(仙台)漂流民が聞き取り調査を手伝い、今にゼオガラフイーの翻訳に精を出している。「百児西亜志」を翻訳し終えたと、久しぶりに顔を出した昌永に報告を聞いたは七夜(一週間)前ではなかったか。「文化丁卯夏六月初旬訳了」その下に「夢遊道人」と認めて有る号を見たばかりだ。昌永は元気だった。
それが、昨夜に亡くなったと聞けば吾に限らず誰とても驚きもしよう。信じがたい。何と言う事だ。
流行り病かと聞けば、伝達の御仁は(死因は)分からないと言う。
佐助を読んだは確かだ。何時に客人が帰りもしたのか。吾とてお茶も出さずにぼーっとしていた。タホのお客様がいらしたとお聞きしましたとの声と、中年太りのその姿に己を取り戻した。
泣かずにいられるか。葬儀の場所も、葬儀の日取りも聞かなかった己が馬鹿かと思いしに、芝蘭堂に入って来たばかりの生意気で人を喰ったようなことを語る若かりし頃の才助が思い出された。知らせに来た豊田殿は、若しかして才助が自慢話の様に語ったあの豊田殿ではなかったか。己の名前を刀の鞘に横文字で書いてくれと頼まれて、Toyoda Toma ObakaYaro(豊田藤馬 大馬鹿野郎)と書いて渡した。豊田はそれを蒔絵にしてまで大事にしていたと語ったのだ。
再婚して子を為し、丸くなりもした才助だ。吾の良き片腕だった。
(文化四年九月十九日(一八〇七年十月二十日)、山村才助(昌永)歿。戒名は大応院詠誉法吟居士、享年三十八歳。深川(東京都江東区)照光院に眠る。転墓され、現在は東京都多磨霊園に墓がある。
なお、大正四年(一九一五年)、大正天皇即位の大典に際し山村才助に従五位が贈られた。それを記念して茨城県土浦市、土浦亀城公園内に今も「山村才助贈位記恩碑」が建てられて有る。
碑文は大槻玄沢の孫になる大槻如電の作で、書は市川寛斎の曾孫に当たる市河三陽の筆である)