(以下、史実に対して誤りなどありましても ご容赦ください(..)


中近東一帯において 宗教、民族の対立を根底とする 積年の紛争が続くなか、1980 イランvsイラク戦争が勃発しました。

石油の利権、イラン革命、外国の干渉と複雑な利害をも絡み合い、落とし所の無い争いは 一向に収束する気配も無く武力抗争が続いた 五年後の1985年、イラク軍がイランの首都テヘランにある 民間人の居住区域を爆撃するに至り、一気に激化しました。

在留邦人のほとんどが住む地域です。被爆の恐怖がひしひしと迫ってきました。


イラン在留の外国人達は、一斉に出国の途につきました。

テヘランにある 日本の石油関連商社の社員たち、自動車関連会社の社員たち、彼らの家族ら、子供達が通う 日本人学校の教職員ら 総勢500人ほどの在留邦人もイラン脱出を試みました。しかしながら、日本の航空会社は かねてから紛争地域には定期便を飛ばしておらず、外国の航空会社は 自国民を優先して搭乗させていたため、日本人を乗せてくれる航空機は ほとんどありませんでした。


戦力においての優勢を奢った 当時のイラク大統領サダム=フセインは、敵国イランの領空を「戦争空域」と決めつけ、その48時間後の31920時以降、イラン上空を飛行する 全ての航空機を攻撃する という宣言を発しました。

48時間の猶予期限が過ぎる時、イラン上空を飛ぶ航空機は、民間の旅客機に限らず全て イラク軍によって無差別に爆撃を受けることとなります。


大使館を通して 現地日本人会からの救援要請を受けた 日本政府は、特別機の派遣を日本航空に依頼しました。

しかし、政府が イランイラク両国から 確実な安全保障を取り付けることが出来ずにいたため、組合員の安全をおもんばかった日本航空の労働組合は、この要請を受けることが出来ませんでした。いつでもテヘランに向けて飛び立てるように、ずいぶん先から ジャンボ機を待機させていたのですが。


自動車での地続きの脱出も検討されました。しかしそれには 国境を通過する許可証が必要で、準備の時間がありません。

さらには、自衛隊機の派遣も検討されましたが「自衛隊を海外に出征させる事は、違憲につながる」という 当時の社会党の反対などにより、実現には至りませんでした。


依然 テヘラン・メヘラバード空港には 出国を望む日本人が殺到していました。が、大半が 取り残されかねない事態となりました。

日本国だけが、本国からの救援機を送れませんでした。自国からの助けが無い との報に、日本人達は 絶望の淵に沈んでいました。

八方塞がりでした。


イラン駐留の 日本大使館職員たちは 全員がイランに居残り 、日本人を脱出させるために 徹夜であちこちへ連絡を取り続けました。その大使館員の中には死を覚悟し、遺書を残した人もいたそうです。

最悪な状況の中、必死に模索を続けるしかありませんでした。


そんな、最期の日になるかもしれない3月19日未明のこと。

空港に詰めていた日本人達の元に 日本大使館から 知らせが届きました。「トルコ航空が救援に来てくれる」

夜を徹して、大使館員が 各国大使館や航空会社と折衝する中、トルコ共和国がそれに応え  トルコ本国に向けて  救援機の増派を要請してくれたのです。

またその一方、伊藤忠商事の 当時のトルコ-イスタンブール支店長だった森永堯氏が、旧知のトルコ-オザル首相に「在留邦人を救うために、トルコの航空機を派遣してください」と依頼しました。オザル首相は「親友の森永さん、心配はいらない」と答え、こちらでもテヘランからイスタンブールまでの 特別便を飛ばすことを決定したそうです。


日本人たちのため、特別機の派遣を決めた トルコ航空では すぐさまミーティングが開かれ、搭乗スタッフの志願者を募りました。その場にいたパイロット全員が 手を挙げました。


319日午後830分のタイムリミットが迫りくる中、空襲警報が鳴り止まないテヘランのメヘラバード空港に二機のトルコ航空機が降りたちました。

日本人198人を乗せた一番機が飛び立ったのは、午後510分。続いて 給油を終えた二番機が飛び立ったのは、午後730分。撃墜予告まで残り1時間でした。


二機のトルコ航空機が無事にトルコ国境を超えた時、間一髪で難を逃れた日本人達の間に 機長のアナウンスが流れました。「ようこそトルコへ」

ようやく 安堵した搭乗客全員から、一斉に拍手が起こりました。


 日本人搭乗客の一人の言葉です。

「信じられなかった。なぜこんな状況下に助けに来てくれるのか、理由が分からなかった」

当時、トルコ共和国が なぜ自国民より日本人を優先して救出してくれたのか、日本人避難者にも 日本政府にも日本のマスコミにも その理由はわかりませんでした。


トルコはイラクの近隣に位置し、自国民は陸路での脱出もできました。実際 日本人に救援機を譲る形で乗ることができなかったトルコ人約500名は、陸路自動車でイランを脱出しました。

また トルコ国内では トルコ救援機が日本人を優先的に乗せた事に対し、まったく非難が出ませんでした。多くのトルコ人が、当り前だと思っていたのです。


後になって、駐日トルコ大使はその理由を短いコメントで表しました。


「エルトゥールル号の借りを返しただけです」


日本人は 命をかけてトルコ人を救った との思いが 多くのトルコの人々の胸に刻まれ、感謝と恩返しの気持ちは100年も続いていたのです。

エルトゥールル号遭難事件は、トルコの多くの歴史教科書にも掲載され、トルコでは 子供の頃から周知されているようです。

国際情勢や利害や体裁などを超えた 日本人にお返しをと言う一心が、飛行機を飛ばしたのです。

かつての親切が 最高の形の親切で返ってきました。


昔、困り果てていた異国の人々を 献身的に支えた 多くの日本人達には、尊敬の念を禁じ得ません。

戦時下で、他国の民を一体となって救ってくれたトルコの人々には、いつまでもいつまでも感謝を続けたいです。


トルコという国は、イスラム圏とは言え さほど戒律は厳しくは無いようで、女性は顔を隠すこともなく、アルコール類も出回っているそうです。

かつてのオスマントルコ帝国で、アジアとヨーロッパが融合した絢爛豪華な文化が花開いた イスタンブールは世界有数の大都市。

アジア側にあるカッパドキアは、今や有名な観光地ですが、シルクロードの起点でもあるようです。

トルコ料理は、世界三大料理の一つ。

見どころもふんだんで、バザールにも 行ってみたいものです。


遠くて すごく近い国、トルコ。

請われたから 飛行機を飛ばしたのでは無く、日本人のためになりたかったから戦地に向かったのですね。

かつての親切を忘れずに お返しをしようとする心意気を 同じ地球人として誇りに思います。




出展:毎日新聞 インターネット版

Sponsored by 東映

20151204

日本とトルコ 125年の友情

1890年の遭難から1985年のテヘラン

ふたつの救出劇 つないだ絆