【2024年はじめのご挨拶を
自己紹介のかわりに投稿してみました。】

新年明けまして
おめでとうございます。

ここからは長文注意です。
わけのわからない事を好きな
ように書いてます。

このような私ですが
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

『日本独特の社会構造と価値のうち3つに焦点を当てる。その3つとは、第一に個人と集団の関係、第二に自己意識を高め社会関係を形作るものとしての機能、そして第三に私的自己と公的自己との境界である。
 海外から日本を訪れた者なら誰でも、非常に多くの組織化された集団があちこちに存在することに強く印象づけられるだろう。こうした集団では、全員が同じ服装をしていることも珍しくはなく、集団としての明確なアイデンティティを持ち、はっきりとした行動規範を有している。こうした傾向は企業や学校において見られるばかりか、東京の上野公園で生活するホームレスの人びとにも見出される。PTSDに関する文献においては、一般的に言って集団の凝集性の高さが、トラウマ性障害の発展を阻止する要因として機能すると仮定されている。しかしながら、西洋世界から訪れた者にとって、このような集団への順応は、個人が体験している独特の主観的な世界を明確に表現する能力に障害をもたらすのではないかという疑念が生じる。ローカス・オブ・コントロールが内的なものであることが、PTSDの発展を予防するもっとも重要な要素であることは、これまでの研究で明らかとなっているのだ。
 西洋の精神医療は、人がその独特の個人的な体験を表現する言葉を見つけうるということを前提として成り立っている。また西洋社会で行われているさまざまなトラウマ治療は、トラウマの被害を受けた者が自己の主観的世界を詳細かつ正確にコミュニケートし再体験できることが、トラウマとなった体験を過去のものとして自分の人生を引き続き歩んでいけるための前提条件であると考えている。もし仮に、言語の第一義的な機能が、調和を生み出し、集団の凝集性を高めるということにあるとすれば、個人の体験の差異を明確にするというこうした作業は、トラウマを受けた個人にとって、すでに敵対的な関係にある環境との間で、さらなる葛藤を生み出す行為となってしまう危険性を生じるかもしれない。
 日本社会は、自己の内的な経験 ー 特にそれがあいまいさ、怒り、不協和音をともなうものであった場合 ー を明確に表現しそれを公的な空間に持ち出すという行為にあまり重きをおいてこなかったように思われる。むしろ、ルールに従い集団への順応を示すような配慮に高い価値がおかれていたようである。したがって個人的な苦痛を社会に対して表現することや、人々を不快な現実に直面させるといった行為は、社会的に容認されがたいものであるように思われる。
 第二次世界大戦の「遺物」を日本社会がどのように扱っているのかを見ると、こうした日本の特徴が明らかとなる。ドイツのような日本以外の敗戦国も、自分たちの内部の社会で解き放たれ、隣接する諸国に多大なる傷をもたらした「暗黒の力」について、数年間はそれを秘密のこととしてまったくの沈黙を守ったのは事実である。しかし、第二次世界大戦を構成した出来事の真実、起源、およびそれらがもたらした結果についての社会的な論議が一切欠如しているという点で、日本は非常に特異的である。日本には、第二次世界大戦による死者を、悼む公的な場所が、私の知る限りではたった二か所しかないが、これは驚くべきことであろう。ひとつは、日本が外的な攻撃の被害者、しかもきわめて無力な被害者となった広島の地であり、今ひとつは靖国神社である。靖国神社には、450万人の日本人戦死者が「英霊」として祀られている。そこにあっては、これら戦死者たちが天皇に対してなした献身的な自己犠牲が、国際的な羨望を集める今日の日本の基礎を作ったのだとされている。靖国神社が備えている極端なナショナリズムの「薫り」に戸惑いや恥ずかしさを覚える日本人は少なくないものの、この神社が、何百万人もの死 ー この死はほとんどすべての日本人家族に影響を与えたものであるに違いない ー を悼むために訪れることのできる唯一の公式の場所であることもまた事実なのだ。
 こうした過去130年間の歴史的な激変がいい加減にしか探求されず、日本人の集合無意識から切り離されていることを知るとき、それ以外にも無視された重要な社会的問題があるのだろうかと思わざるを得なくなる。戦争で死んだ者、あるいはあの戦争を生き延びた者の戦争体験を取り巻く沈黙が、日本人の家族生活にいかなる影響を及ぼしているのだろうか?第二次世界大戦の戦慄の影響は、情緒的なひきこもりや攻撃性の爆発、あるいは親密さの欠如という形で現れているのであろうか?苦痛をもたらす記憶を一部の異端な宗教やセクトのものだとして遠く離れたところへと追いやることで、過去および現在の不快な現実を社会的に無視することが日本の文化様式の一部として組み込まれてしまったのだろうか。自らの過去に直面せざる者はそれを繰り返す運命にあるとは、フロイトや哲学者サンタヤナが主張するところである。これがどの程度真実であるかは誰もわからない。(以下省略)※』

一人の個人は、
家族という上位階層から
影響を受け

家族はそれよりも上の階層の
各コミュニティ、各学校、各会社などの組織、
地域、都道府県、国、世界の各社会や各文化
また民族、先祖という上位の階層の影響を受けます。

それらの社会問題など上位の階層の大きな闇や影
ほど大きな影響力を持っています。

国や組織などの影は、その集団の「自我」を
脅かします。
無意識的なリーダシップという影響力で、
最も優れているとされる集団であっても
欲、未熟さ、その集団のトップ層の人達の
自己愛的な欲求により無意識に支配されてしまう
こともあります。

そうすると、その事が認識されていても、
されていなくても組織に属している人達が苦しみ
その集団も個人も傷つけるような病的な現象が
姿を表すことになります。

その影は解決されるまで、
次世代に受け継がれます。

遅かれ早かれ皆が苦しむ事になります。

国や組織を導くリーダ、
トップ層が発達課題で影に直面しないで
避けてきた問題は、

その国、組織、集団の構成メンバーの
従業員や新しいメンバーや次の世代
まだ立場の弱い人達が問題として
背負わされます。
責任をおわされます。

つまり、その国や組織や集団の
リーダ層の力量、器、精神性の高さ
そのような物差しとしては、

その構成されている人達の中で
立場の弱い人達をどのように扱っているか、
どれくらい病的に苦しい状況、
しんどい状況に追い込んでいるのか、
どんな問題を見ないふりしているのか、
それをいつまで続けていくのか、

そのような事なのかもしれないと
考えます。

河合隼雄先生の最終講義より
「コンステレーション(布置)」「共時性」から
インスピレーションを感じてこのような
年始はじめの投稿としたいと思いました。

バタフライ・エフェクトが何重にも起こり
2024年がすべての人達にとって
良い年となりますようにと願ってやみません。

※by Bessel van der Kolk 2001年の言葉より引用