この題名には意図があります。

「ああ今日はパス」とスルーされる場合 ←この「される」は受け身。 もはや今ここすら目にされていない方 ←この「されて」は尊敬。 一方、詰まらない題名に離脱せず今まだ読み進めようとしてくれている方。以下に続ける内容は、その後者の方(かた)向け。とっつきにくい内容に付き合ってくれる方だけでも、もし読んでくれたらありがたいです。

 

 

都知事選が終わりました。一時期都民だったこともこの人生の中であります。今は違います。今となては大昔、内田裕也氏の政見放送を幸運にもリアルタイムで見てたいそう驚きました。が、今回はその比ではありませんでした。百花繚乱にはほど遠く、玉石混交でもまだ褒め過ぎ。ご存じない方は「何をふざけたことを言ってる?」と不快感を抱くかもしれません。→ほんとにエロい政見放送がありました。←ポスターとは別件 

 

 

いま話題になっている人がいます。

正直、いい印象がありません。正しいのではあるのだけれども正しさを声高に叫び誤った者を徹底的に挫く。人を見下したような態度、不必要に好戦的、挑発するような言動。←僕の印象です。この感触のままで居てもいいのか、というのも何やら人として如何なものかと立ち止まりました。

 

せっかくなので今更ですが、支持を受けた理由をもう少し知ってから再度判断しようと思いました。そこで主戦場?であるYouTubeを観て見ました。

 

対談しているものを選びました。印象が全然違います。開票の速報番組での態度が余所行きだったのかと思い直しました。ただ、人によって場によって態度をあそこまで変えるのかと、微妙な複雑な気持ちの中。

そのYouTubeでの対談相手に「今や時の人ですね!(要旨)」と褒められた折、返しの言葉

 

「とんでもございません笑」

 

 

ああ、この人をして、

この言葉がこの人の語彙にあるのか...とがっくり。...してそこから先、今書いている「これ」を書き上げたい欲求が勝り、観続ける興味を横に置いてしまいました。僕のこの姿勢にも問題があります。でしょうか

 

 

例えば

・儚い(はかない)

・そこはかとない

・汚い(きたない)

・味気ない(あじけない)

・忍びない(しのびない)

・幼い(おさない)

・危ない(あぶない) などなど無数

 

これらは皆文末の「い」を「く」に代えることが出来ます。つまり一語(一文節)の「形容詞」です。

平仮名にした時の後ろ二文字「ない」を切り離して用いることはありません。「とんでもない」も同様です。「とんでもない」の「ない」は打消しの助動詞「ない」ではないのです。

 

会話の流れで「とんでもございません」が何を言わんとしているかは十分伝わってしまいます。それゆえ使用の市民権を得ている言葉であるとは思います。

「白い巨塔」(唐沢寿明版・井上由美子脚本)で、お義父さん役の西田敏行が「とんでもございません」とも言っていました。財前教授をして言っていたような気がします(笑)

 

ただ使わない人は使わない。皆が使っているから自分も使うとはならない。文法上の正しさを振りかざせば「とんでもないことでございます」。

ただ単に「恐縮です」「ありがとうございます」でその場の役を十分果たせると思います。いわれのない事を言われた際の返しならば、別の言い回しになります。

 

 

寝癖を指摘されるのはたいそう恥ずかしいことです。外出する前、仕事に出る前、人に逢う前、家で鏡の前に立つ。「とんでもございません」は寝癖には相当しないでしょう。身だしなみのセンスの範疇でしょう。気にならない人は気にならない。気にしない人は気にしない。口に出して注意はしないけれども気が付く人は気が付く。その人を値踏みする一材料にはなりうる。

けれども気にする人がそれを声高に指摘したり勝ち誇ったりするのは、酷くみっともない。

 

言葉遣いや礼儀作法の強要は強要がゆえ共感を得られないと承知しています。一方で、自分が気が付けない教養でもって相手のものさしで測られ判断されている時もある。未然にそれを防げなかった時、どういう返しをするか。それで以てその人となりがまた判断されてしまう。

 

 

 

 

趣味の世界において、ちょっとした間違いをしてしまったら訂正を促されるか批判や冷笑の対象になるのに対して、こういう面での正確さを期するとひょっとして煙たがれるとするならば、それは不公平ないしご都合主義であると内心思います。※実生活で正すことはありません、前もっての説明に迫られたときのみです。

 

 

 

 

 

 

※ほぼほぼ形容詞で歌詞が構成されています。

 

人間の「い」

さすがの拓郎さん。

絶品の歌唱