おととしの夏くらいに「もういいかな」と初めてその気持ちがよぎりました。去年の暮れ「ああもう完全にいいかな」と思いました。

 

誠実そうに見えて実はお別れの挨拶をしてその感傷に浸る人に結構ぼくは嫌悪感を覚えます。この感情は共感を得られないだろうと思いつつも書かずにはいられないです。「しばらくお休みします」と宣言したのもわりと束の間2週間以内にそれまでのペースとの違いが見当たらずいつも通りでは?と映るペースで更新してたり、「皆さんからの『やめないで』の言葉に勇気づけられ思いとどまりました」的な説明で前言撤回する人、その人なりには深刻だったのでしょうけれども、てきとーだなーと思います。お別れの挨拶に失敗する人が好きではないです←非難してます:その理由にあたるもの後述

※ちなみに、もうずっと永らく財津さんや拓郎さんの言葉はいつも半分くらいにしか受け止めてきていません。ですのでこれに当て嵌まっていません。

 

〈深刻さは半人前のほうが世の中うまく渡っていけるのだ〉という僕の僻み(ひがみ)なんだと自覚しつつ。

 

 

 

本来ならば、人としてお世話になった方々や自分に親しみを抱いてくれた人にきちんとお別れを告げていくのが礼儀やけじめ、あたたかみ命あるものらしさ基本であるんだと知っています。でも応用問題・発展問題もあります。

 

けれども、何も言わずに今までを振り切ってその場を離れて次の場所へと行き新しくまた始めていく。そして多分離れたもと居たところで「ああ、あの人って案外冷たかったのね」と思われるのは、そんなに苦痛ではありません。

 

実生活でも、お別れをきちんと告げて惜しまれるのは悪い気はしないどころか勇気や希望になります。が、お別れを殊更に演出せずにさらっとお知らせしたつもりだったのに号泣されてしまった経験があります。目標に届くよう応援させてもらってきたのにその相手の胸を締め付けてしまって自分はなんて無神経で罪深いことしてしまったんだと後悔した記憶が強く残ってます。大事なことに気が付けなかった。それなら「冷たい人だ」と切り捨てられる方がずっといいのです。言った瞬間その気持ちは軽くなりみっともなく浮き上がり、その言葉は嘘になります。

 

今さっき〈感傷に浸る人〉と記述しました。これは誰かのことではなくて僕自身がすこぶるそうなってしまう、そうして過去のあたたかみから抜け出せなくなってしまう出来損ないの淋しさが、歩みを止めるであろう心配と危機感と自己嫌悪です、というのが正確な真実です。

 

けれども、ここで今日までよくして来てくれた方々の日ごろの何気ない言葉や流儀、親切をこんなにたっくさんもらって来たにもかかわらず、何も言わずスパッと無くしてしまうのは、あまりにあまりに不義理であると思い至っての、今のいまです。

 

ご挨拶です。

いままでありがとうございました。記事更新はこれで最後です。理由としましては「いまそういう気分になってます」くらいにしか説明が出来ません。本当に申し訳ないです。いままで本当にありがとうございました。

 

今日は4月1日。

 

 

 

 

これは酷いと思いまして当初の記事タイトル「ごあいさつ」から、怒られると思って記事タイトルに「エイプリル・フール」を付しました汗

 

この記事はフィクションです。本当にフィクションです。ホントの嘘です。

更新あります

今週末までにひとつ

来週中にひとつ