当ブログ、僕の記述、コロナに関して振り返ってみました。 各稿原文の肉を削ぎ落して骨の部分を抽出しようとしました。しかしそれでも長くなってしまいました。 同じ内容を一部繰り返してしまいました、端折れませんでした。 

 

2020年1月

記述無し

 

2月27日 

皆の意見を吸い上げて決定するのは一見、丁寧な進行のようにも思いますが…  でも、、、ちょっと考えれば、、また すでに他の動きを見ましても、もうとっくに答えは出ていますよね? まずは決定権のある人間がきちんと方針を示すべきではありませんか? そしてそれに対しての意見あるいは反論へ返答し、理解を得られるようにすべきではないですか ?  このやり方はご自分の決定に対する自信の無さをぼかしたり、生じるかもしれない批判をかわしたりする観測気球で、優柔不断以外のなにものでもないと思うのでが… 意見を募らないと決められないような高度な難問でしょうか? 中止に至った経緯や思いを述べたらすぐ終わりますよね? 今、私たちが考えるべきは中止後の対応についてではありませんか ?

上記は創作上のセリフです。創作を纏って僕の考えを述べていました。 決定権を持つ人間が自身で広く意見を募りながら、結局は自分を支持する意見にしか耳を傾けられなかったと思える反応に失望したのがこの稿の契機となりました。

 

 

 

3月9日

松山千春2020年春のコンサート・ツアー 「思い出」@東京国際フォーラム公演 の先行抽選をネクストロード経由で申し込んでおりました。“ まあ 5月だから大丈夫であろう ”…と のん気を装い構えていましたが、、開催が危うい情勢を感じ取っています。もろもろ相当な持久戦を覚悟しつつあります。楽観はせず悲観的でちょうどいいくらいな臆病さで日々を乗り切りその日を待つとしておきます。

 

今さまざまな企業や事務所や個人が存続の危機に直面してしまっています。

 

この3月、全国大多数の小・中・高は一斉に休校措置の只中です。人が集まる催しは中止を余儀なくされています。我慢と諦めを強いられた人がいます。でも感染拡大を阻止出来ているような感じはしません。これは3月以前の導火線。既に放たれた火が猛威を振るって日本列島を蝕んでいる。日々新たな感染者数が報じられる。

 

… ということは、まだまだ広がっていくとしか思えない。

 

インフルエンザには人生一度も罹ったことはないけれども、今後どんなに衛生面に気を遣っていても、もしかしたら自分が新たに報じられるその数に入ることだってもう有り得る事態だって特別な事でない。…と刷り込まれている。

 

騒ぎ過ぎではないのか?という疑問もあるにはある。感染者の追加発表だけで不安を煽ってないか?発症や重症化は誰も望まないが、それよりも病気よりも、その手前で通うこと・行うこと・働くことを制限されて困っている人がいる。

 

取り上げられたり・奪われたり、涙に暮れる人・放心脱力するしかない人・持ち堪えられないくらいの死活問題でありながらどうすることも出来ない脅威に曝されている人、 

 

停滞を余儀なくされている。

 

不安感・絶望感・罪悪感・閉塞感・苛立ち混じりの胸苦しさ・眩暈、

 

それらを …生粋の大きさで雲散霧消、吹き飛ばして欲しい。その日が来たら。大らかな声と笑顔にやはりふれたい。声を言葉を聞かせて欲しい。好転 ( 好天 ) を望むには今のいま余りに日数が無さ過ぎるのは百も承知で。

 

でも今は - 待てば海路の日和あり  

(注)5月の東京国際フォーラムに前にツアー開始日4/10のチケットを既に取っていました。

 

希望的観測を強く併存させていました。

 

3月10日

This Now March, Almost all of the elementary, middle, and high schools in Japan, we are in the midst of the school closures. And there are people who are forced to cancel or postpone the events such as concerts and plays.

今、日本のほぼ全ての小学校、中学校、高校が休みとなってしまっている。またコンサートや演劇なども中止や延期に追い込まれてしまった人たちがいる。

 

  The stage , The national meet which might have been once in a lifetime which he or she grasped after a desperate effort.  Graduation ceremony.  Wedding day.  There are people who were forced to be patient or give up.

力の限りを尽くした努力の末にようやく掴んだ全国大会、卒業式やこの機をずらしたくはなかった結婚式もあった筈だ。 一生一度が奪われてしまった人たちがいる。 我慢し今は諦めるしかない人たちがいる。

 

With your voice and a smile, I want you to blow these upsets away when the day comes. 

When you can sing at Ichihara City Chiba Prefecture as planned, I never fail to go.  I do want to respond to your will of choosing Ichihara as the first step this time if the situation is forgiven. To hope for the better situation, but we have very few days until the day, I know.

However, after heavy pain, I wait for the moment and the day when comes to calm to us through over these experience.

 

Dear Chiharu

 

ねえ、あなたのその声と笑顔で、ぼくらの眩暈とやるせなさを吹き飛ばしてよ。予定通りにその日その場所があるのなら絶対駆けつけるからさ。今はまだどうなるか分からないけれども、きっと心を取り戻せる日が来ると思っていても大丈夫だよね。

 

松山千春さま

前日3月9日の吐露を英語⇔日本語で行き来させ自身の心情の咀嚼を試みていました。この頃、希望とか明るい未来を切望していたのが本心だったんだと思います。

 

 

 

3月12日

新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない。性質(たち) がこの上なく酷くて人々から生きる力を奪っている。罹患してないにもかかわらず、被ってしまっている困難・理不尽・激痛に今の今容赦なく精神を蝕まれている児童、生徒、学生、大人がいる。

 

日常を奪われ未来が閉ざされてしまっている。経験した事の無い我慢を強いられている。気力が持たない今の今。心が瀕死の今の今。苦しんでいる人が大勢いる。

 

うんざりしながらも今は花が開くような本来備わっている (と思いたい) 生命力が欲しい。この絶望の中にも、思い出したら目を向けたら探したら…有る筈なんだと思うくらいは自分に許していいだろう。そんな治癒力が今日まで生きて生きて生きてきて、お願いだからあって欲しい。

 

 

 

3月28日

歌い手自身の健康の方が心配な今の日本。これは松山千春に限らずぼくがよく聴く歌い手は皆、持病があったり大病後だったり、なにかと病に見舞われたり重症化しやすい年齢ですから。ツアーを行うには今は地球規模で世界中どこも適していない。正確にはコンサート・ツアーだけではなく、ですね。さらに、いつがいいのか…いつなら出来そうか…それすら 今は 分からない。

 

今は「しない」「できない」理由がたっくさんあって、その一つひとつがとてつもなく重くて強くて濃い。身動き出来ないくらいに。

 

「する」側は延期だとまたまた首を締められてしまう。だから矢沢永吉の中止は見事なまでの潔さを感じた。多分、永ちゃんは微塵も悩んで無かったんじゃないかな。ただ状況を睨みつけたら、そうして居た… というような印象の歌い手です。

 

夏の大会、甲子園もどうなんだろう???結婚式を泣く泣く延期した人も居る。泣く泣く…なんて生易しい表現で当人たちの心情にどうにも釣り合ってくれない。

 

 

 

5月15日

家に篭れる人は家に居る。それを楽しめる人、ストレスを抱えてしまう人。動画を撮って創ってUPして、励ませる表現者・アスリートは誰かを元気づける。そして自分自身をも鼓舞する。

 

実名や匿名でも、共感力がある人は現場へお金や物を届けてる。

 

不眠不休でありながらも、泣き言を漏らさず従事している医療関係者、使命感・責任感でこれだけ尽くしていても、無理解による仕打ちを受けて尚耐えている人がいる。

 

国を動かす人、止める人、億単位のお金の使い道を決められる人もいる。

 

経営・お店存続の危機に際して必死にやりくり工面して心を砕き知恵を振り絞りもう限界でも、人前では笑顔でただいつか来るその時を待ち気力で持ち堪えている人がいる。 

 

卒業式、結婚式、入学式、入社式、、、試合、舞台、大会、学習の機会を奪われた人が大勢いる。

 

5月15日

(辻仁成のLIVE延期決定を受けて)でも まあ 来年でよしです。来年なら大丈夫という保証は全然無いけれどもなんとなく今年の夏以降・秋口・冬はまだもっと分からない… 気がしていますし。

 

 

 

6月2日

11月… 無事にコンサートが出来るようになっているかどうかも、まだ分からない。コンサートにふさわしい日和が来てくれるかどうかを待たなきゃなんない。

 

“待ってればいいんだよ”この声と言葉の主(=松山千春、「春夏秋冬」を発表した際の言葉)を好きならば、 なんとかなってくれ…と祈ろう、待とう。

 

6月5日

「したい」が芽生えて「できる」まで臨める。 それをもぎ取られて奪われて取り上げられて笑顔まで 遠くに離れてしまっている人が居る。 伸ばした腕の先たったこれだけの距離(が今は途方もなく遠い)。…会場ではいつも遠くからではあったけれどもこの人生においては…遠くなんてもんじゃない、次の TULIP は ♪あなたのいる世界 を生で聴きたいものであります。

 

やがて そんなふうであって欲しい この世界。

 

6月30日

極めて直近の新しい問題としてはマスク。品薄とかではなく- 路上で見かけるようになりました - 無造作・無責任に捨てられたマスクが海に流れ着き始めているようです。実際には紙ではなく分解して海中で溶けるまでには数百年単位でかかるとの事です。食料と間違って口にしてしまう海中を住処とする生き物たちはいい迷惑です。  

 

コロナに嫌というほど皆が脅かされました。 

 

でも人間の醜い部分もいろいろと日々炙り出されても来ました 

・マスクや消毒液の高額転売(及び備蓄が底をつき生命に関わり本当に必要で高額でも買わざるを得ない人への無理解と無知無恥に基づき、高額転売を需要と供給の原理だなどとして良しとした頓珍漢な知ったような事を垂らした人)、 

・マスクのポイ捨て・マスク警察・自粛警察、  

・医療従事者や感染者及びその関係者や店員さん、夜の街(と言われている場所)で働く人などへの心無い言動及び対処、  

・実は自分は裕福で同業者の困窮を大っきく拡げて「文化が死ぬ」だの「廃れる」だのどうのこうのとご都合的に結び付けて特権(保持)意識、勘違い、思い上がりを晒して、多くの労働者や歌い手やアスリートや人を笑わすことを生業にしている人が試みた工夫や絞り出した努力の類は初めから放棄して、やすやすとイライラして諦めて自分は私財を投じず(投じたようには思えないまま)「守れ!」と国へ文句をぶつけ垂れ流したごくごく一部の余力と余財のある役者や演劇関係の人達など。

 

日本人は災害時や有事に略奪や暴動を起こさないのが誇りだ、などと寝惚けた自慢をする人が居ますが、「俺コロナだよ」と言って業務を妨害する馬鹿、マスクのポイ捨て、有料レジ袋化どこ吹く風で要求する人、駅やコンビニのゴミ箱には “家庭用ごみを捨てないでください”の掲示、災害時の無人の家での窃盗、被災者に付け込んだ詐欺、、、、

 

、、、誇りにするだなんて公言するもんではないと思います。 迷惑や損失を被って居る人・傷つけられた人へ配慮すべきと思う次第です。割合は低く一部でしょうが、それをもってしても誇らず恥じるのが賢明であると思う次第です。まあ、恥じるのもタダ(無料)で何の役にも立ちません。

 

刺々しくなっていきます。

 

 

 

7月14日

どれが従うべき正しい情報であるのか釈然とせず、どうしたらいいのか・どうしたらいけないのか混沌としている状況・印象です。直接痛い目に遭ってない人間の危機感は時の経過とともに容易に薄らぎ忘れ去られていってしまうようにも思えます。気を付けねば。学んでおかねば。思い出さねば。

 

ここまでのこの現実世界を全て絵空事・虚構と見立てたとして、今日の今日があと少しの最後の難関・山場にようやく来ているどころか、全体の半分までにすら来たとも全然ぼくには思えない。用意した着地点に辿り着くのに、まだまだ文字数ページ数を要さなければならない火種と回収困難な伏線を置きにかかる登場人物たちが日々迷走しているように思ってしまう。 

 

人と分断されつつ自ら距離を保ちつつ、自分の足元と近景、人の表情と声と姿、そして遠景をしっかりと捉えねばならない。臆病かつ悲観的ではあるけれども、絶望はしていない。PCR検査が気軽に毎日毎日自分で出来て、薬もワクチンもたっぷりあるだなんてわけでは到底ないのがぼくの知っている今のいまなのであります。 これで行動の指針がぼくは決まる。 自分を飽く迄満たし潤したいならそれは後回しだ。 それでも・そこからでも誰かの何らかの一助には成り得る。やりようは在る。

 

心の在り様の変遷を感じます。上記、“自分の足元と近景、人の表情と声と姿、そして遠景をしっかりと捉えねばならない”を噛みしめ直そう。

 

 

 

8月8日

 “がんばるな、ニッポン”この言葉に救われている人がいるなら、そういうことなんでしょう。でも、この言葉が用いられたCMの中身=システム=新しいとされている働き方の在り様・有り方に今後、巣食われて蝕まれていく人が出てくる。それはコロナのせいではない。

 

政府までが旅先でパソコン開いてお仕事しましょう、なんて言っている。こんなことが可能な職種は限られるにしても…そこまでの責任をサイボウズは負ってはいない。負う必要が微塵もありませんが “がんばるな、ニッポン”のコピーは著しく的を外している、というのがぼくの感想です。CMやめろ、とは言っておりません、念の為。  印象に残すという点からは成功しています。

 

8月22日

(コメント欄への自身の投稿)“がんばるな”というフレーズが、ぼくはどうしても承服出来ないでいるようです。 通勤を頑張る・頑張らせる、という言い回しが成立するのであれば、それ以上に、サイボウズが売ろうとしているシステムは、昼夜(時間)を問わず・場所を問わず・プライベートを侵食出来得るものとして“仕事を頑張らせられる”ものです。

 

その張本人が“がんばるな”と投げ掛けるところに不快感を覚えたのが根底に巣食っている…というのがぼくの受け止めです。

 

簡単に“がんばれ”と言うのが意図せず人を追い詰めることがあるのと同じように “がんばるな”の美辞麗句がどれほどその後に対して無責任な姿勢であるのかを非難・糾弾したいようです。インタビューを読み、サイボウズの意図したところを“がんばるな”の一言で象徴したところが、どうやら、どうしても、その感性・言語感覚がぼくとは相容れないようです。

 

 

 

9月8日

甲子園の土入りキーホルダーを全国の高校3年生の野球部員に届ける、最初にそれを知った時に感動したのもぼくです。でも

よくよく考えてみると、もしかしたら、、、その行う側の気持ちに感動しただけであってそういうことを施される側の高校3年生たちの気持ちは置き去りにしたままのマスターベーションだったと思うとありがた迷惑どころか、その感動・共感・賛辞はただの迷惑行為です。

 

 

 

10月31日

「不正受給」と併せて「トリキ錬金術」 (鳥貴族は赤字を被り)・「無限くら寿司」 (くら寿司は喜々として宣伝していますが)の 3点セットで “日本人はおめでたいことこの上ない”…と記すのが早計・軽率・不適切で不快感を催させるのであれば、それは日本人という主語がそうさせている。

 

日本人はコロナ禍においても我を見失わなかった、(と賛美するのがぼくは好きではない)・いつから日本人はこんなに卑しく落ちぶれたのか? (と嘆くのも気持ちが悪くなる)…いずれも実情に合っていない。

 

日本人は、と括るのはどうにも大間違いでしかない、戯言だ。 我を見失った日本人、卑しい日本人が、そこそこいる。もともといる。そしてそれはコロナのせいではない。

 

“それはコロナのせいではない” が度々登場するようになりました。 

 

 

 

11月2日

今年の大学1年生は、ほぼほぼキャンパスに足を運べないまま1年生を終えようとしているし、4年生は、このまま卒業を迎えざるを得ずそこから長い長い長い、手に負えない人生を踏み出していかなきゃならない。結婚式の延期ないし中止は17万組になるという。 五輪も延期となりました。[来年も出来ない現実・理由] と [開催に漕ぎ着ける為の変更・努力] が対面していますが、前者がどうにも優勢なような気がします。が…ぼくの見立て・予測は往々にして外れるようになっていますので、どうにかなって行く?のかもしれません。

 

これから本格的な冬を迎えます。全力で取り組む。疲れたらペースを落とす。もっと疲れたら休む。その時も胸に在るよりよい自分という幻想を捨てきらず願う、できれば強く。目的地を目指す。がんばるな、ニッポン…この言葉に足を引っ張られずに、と僕は思う。

 

 

11月18日

(五輪)開催中には、熱中症患者も多言語で以て搬送される事態も想像出来る。 コロナとの判別にも時間を要し困難を極める中、他の病気・症状の搬送者対応も並行する。 現場が崩壊して機能不全に陥るのを避けられるのか。 医療従事者に感謝の拍手やライトアップ… …行う側の気持ちを満たすイベントと化してはいないだろうか? それで以て一時医療従事者に与えられる(であろう)・得られる(であろう)・沸き上がる勇気や使命感を搾取し続けて、ぶっ倒れるまで医療従事者を疲弊させるだけ疲弊させる脅威を種付けて五輪を開催した…わけではない、と誰が今後策を講じ責任を持ち、闘っていくのだろうか? 

 

医療従事者は-五輪の観客とは成り得ず-命を預かるスタッフとしてどれだけ頑張っていけるのだろうか? 使命感や責任感を飽食しまくっていく。

 

五輪を目標にしてきた人間が喰らわされた延期による脱力感、活躍の場を取り上げられた虚無感、目標が消失した時の絶望感が厳に有る。しかしそれらは五輪を目指したスポーツ選手だけの苦く重苦しい経験ではない。 

 

打ち勝つとか復興とか…夢や希望を与えたい、勇気をもらいましたとか、感動をありがとうとか、これらはきっと今も胸が躍るような出来事に恵まれている幸せな人達の来年の楽しみ・行事・余暇なだけではないのだろうか…と思う。

 

会社が倒産した。工場は閉鎖した。お店は閉店した。早期退職を余儀なくされた。失業者がたくさん出た。インターハイは中止になった。 全国大会はおろか予選すら行われなかった(部活がある)。発表会が中止になった。 解散ラストLIVEは無観客で行った。 活動停止、解散になった。 修学旅行も中止のままか地元で行った。 キャンパスに足を運べず新たな友人が出来ないままだ。 新しいバイト先も決まらない。 結婚式を行えないままだ。 破産した人・寸前の人。死の間際、最期どころか、亡骸の手を握る事すら許されないままに荼毘に付さなければならなかった。 

 

それらの人々に夢や希望を、、、、 五輪は与えることができるのか?ならば絶対に開催すべきだ。でもそういう装置なのか?五輪は。 競技に打ち込める、五輪を目指せるだけでも幸せだ…で完結をしない明日で世界であってもらいたい。ただ…苦境を強いられている人の気持ちを汲めないまま(“五輪の開催を望んで欲しい”と国民に呼びかける)なら、夢や希望を与える事は決して叶わない。そもそもおこがましい。それをキーワードにして五輪開催の意義を説くのはあまりに自分本位だと、僕は思う。

 

 

 

12月16日

必要な注意を払っても感染(拡大)が避けられないところまで来ているのではないのか。

 

今、気ままに、感染したら重症化が懸念される老人たちが会食をそれなりの人数で謳歌する。営業時間の短縮をしているお店の人や医療従事者の神経を逆撫でするかのように。必死に闘っている人を絶望させて見切られてしまうとは露程も思えずに「決める(べき)」人が何も決断しないまま「決めるものではない」と擁護されている。

 

12月23日

病院の世話になる人と医療従事者を心配し労う人との狭間で、医師や看護師は心をがりがりと削られていく。 慰労金にしても看護師はそのお金を使って自らを回復させたり満たしたりする暇がそもそも取れず、余裕も欲求も枯れ果てているかもしれない。 

 

敬意や感謝、言葉やお金、真心よりも必要なのは人並みの休息、休日である筈だ。 一方で、人並みの休息を確保して、休日はおろか日々の主に夜を楽しんで、暇と余裕と欲求のままに、出歩いて往く人がまだまだ多数を占めている。

 

今後、受け入れ先が無くて病状の悪化や助かる筈だった命を落としてしまう人がまだまだ出てくるかもしれません。 それは見知らぬ人かもしれないし、自分かもしれないし、自分にとって身近であったり大切な人であったりするかもしれません。その時に、今度は、コロナ患者対応で人手も病床も足らずに受け入れ拒否をせざるを得なかった病院や医療に関わる人達を責めるようになります。

 

敢えて言います。悪いのはコロナではなく、悪いのは、暇と余裕と欲求のままに出歩いて往く人だ。「感染予防に十分に努める」と言うならそもそもがその外出は既に危険行動な筈だ。出歩いた先のお店や行事を催している人はどうなるんだ!と言うのは全く別の話です。言うほど本当に支援したいのが第一義なら、ただ単にその金を寄付すれば果たせます。だからそれは口実に過ぎない。外に出るな、とは言ってません。「医師奮診」(2020年創作四字熟語最優秀作品)、この言葉を知って、実情の過酷さとあまりにかけ離れている感覚に腹が立ってしまいました。僕は、です。

 

3月9日の稿に「不安感」「絶望感」「罪悪感」「閉塞感」「苛立ち混じりの胸苦しさ」「眩暈」が記述されていました。近づこうと試みていたように思います。 12月23日のそれは「危機感」「嫌悪感」を外に向けて撃ったような印象を抱きました。

 

 

 

 

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1年前。

 

2019年末、

海の向こうのニュースとして伝えられていました。

 

海も国境も難なく越えてしまいました。

今や国籍も老若男女も関係なく人類に関わっています。半世紀生きて来て初めてのことです。

 

遠景が見えにくい、目を凝らしても。

近くであっても人の心が分かり辛い、

誤ってしまう。

 

…のだろうか。

 

 

あと何回、書くことに駆られてしまうのだろう。

自分自身の在り様で。

少なくとも今の今の気持ちでは、

もう書きたくないな、と思いました。

 

 

途中飽きたり辟易したりしても

ここまでお読みいただけましたなら、

本当にありがとうございます。