come across

 

 

across 「横切って」「交差して」「向こう側に」などの意味を持ちます。

 

get(put) A across to B だと

「BにAを伝える/理解してもらう(させる)」の意味になります。

 

自分が相手に届く、ような感じです。

 

爽やかでいいです。

澄んでいていいです。

望ましいです。

好ましいです。

穏やかでいいです。

生きている感じがします。

その価値を感じます。

 

 

 

come across A (人や物)だと

「Aに偶然会う、Aをふと見つける」となります。

 

 

 

 

「食事ができたよ」

「今、行くよ~」

の場合 I'm going. ではなく I'm coming. と言います。

 

つまり go は「今ここに居る自分を起点にして何処か遠くへ出向く」

ふらっと・ふと行く先を決めずに旅に出る感じを抱けます。

 

 

記憶にやどる陽炎は 線路の彼方に今もある

電車がレールを鳴らすたび 僕らは旅に出たくなる

 

まぼろしに似た青春に 再び逢える日が来れば

もう一度だってこの道を 進んで行くに違いない

 

♪吉田拓郎「レールが鳴ると僕等は旅がしたくなる」

 

 

自分の中に 風が吹き木の葉が落ちて微かに波紋が広がっていく ざわめく瞬間。

 

 

 

一方 

comeは「相手や対象へ自分が近づいてゆく」

自覚するか、その多くは無自覚ならば意思(意志)や目的がずっとずっと奥底に潜んでいるかもしれません。

 

そう捉えたくなることを

それを必然に衣装替えさせるのを

よしとします。

偶然と必然は表裏一体。

その瞬間、

どこに自分が立っているかなだけでしょう。

 

 

 

♪探すのをやめた時 見つかることもよくある話で  井上陽水 夢の中へ

 

生きて居たら誰にでも訪れる “一瞬” “偶然”。

 

この歌詞はとても・とても味わい深いです。

こういう真理を切り取った陽水さんは

本当に天才・鬼才・異才だと思っています。 

 

見つかることを願っていたのも忘れた頃に

見つけることを待っていてくれたかのように

暮らしに・生きていることに“うおっ” と

歓喜する瞬間。

人との交差なら尚更のこと。

向こう側が、こっちに・ここになる瞬間。

 

 

 

across

 

人と物

人と人

…と…の接触・邂逅(かいこう)をドラマチックに物語る装置として(笑)

 

実生活でのその体験の色濃さ・感慨深さもさることながら

 

このブログ世界に関してなら…

 

何十年も前に

なんじゅーねんも前に

 

聴いていたレコードや、

本や映画に漫画まで

 

感受性の醸成に

少なからず寄与し…過ごし…

大人になって

 

 

 

 

何十年も前に足を運んでいた

TULIPのあすみが丘や中野サンプラザや

普通のどこかでの公演(笑)

長渕剛の1988年の武道館に東京ドーム

拓郎さんの東京ドーム

 

記憶に残っていて

 

すごくないですか?

その時、

そこに居あわせていたって

 

come across

 

 

 

足は運んでいないけれども

TULIPの鈴蘭や1000回やPAGODAに

 

甲斐バンドや松山千春に

 

話題が交差する・できるのは

それなりに “うおっ笑い泣き” となりますニコニコ

 

 

 

人生で自分に起こる事象は

これみな全て偶然。

意味を着せたら必然。

その意味を着せるか・着せられるか、

部屋着のままにするかは…

自分の気持ちの持ち方しだいに

匙に載せたい純粋さ次第。

 

 

 

ということで、さらりと歌ったこの曲。

 

そして、

本稿のきっかけは、この「回転扉」です。

 

 

ちなみに寺尾さんは名盤『Reflections』を

曲順そのままにフル・セルフカバーした

『Re-Cool Reflections』というアルバムを発表してます。『Atmosphere』も期待してましたが(笑)、、ありませんでしたw

 

東芝EMIのベスト盤CD二枚組シリーズの寺尾さん盤は、その二枚でオリジナルの3枚分のアルバム曲が楽しめる優れものでしたニヤリチョキ

 

寺尾さんで一番好きな曲は -たぶん- ここ40年近くでかわらず、ぼくは

 

喜望峰

 

であります。

 

もしかしたら

寺尾さんの『Reflections』は

最大公約数だろうなあ、と思います(笑)

 

 

 

ここまでお付き合いいただきまして

誠にありがとうございました。