サイボウズにはお世話になったことがありますが、このCMが大嫌いなのがぼくという人間です。 「ええええと、ずっと前にもこの感覚を抱かされたCMがあったな…」と思いあたり検索をかけ捲ったけれども見つからない。。。

 

…そういえば、自分でまとめたことがあったな、と古い古い資料を引っ張り出して探し当てた。

 

2004年10月29日

2004年10月29日

 先週の日曜日、新潟で起きてしまった地震に関するニュースを見ていたときのCMで、愕然(がくぜん:ひどくおどろくようす 三省堂国語辞典より)としました。チョコレートのCMだったんですが、××××××××× の×××が画面に向かって言うわけです。「無理しないでやめちゃえば。自分らしく生きていけばいいじゃない」と、さも優しそうに語りかけるわけです。無理しないで、やめちゃうことが「自分らしい」とは、一体いかがなものなのか?ましてや、×は「やめちゃえば」と言った後で・そのCMだけでさも優しい表情でチョコレートを渡すだけなんですね。なんていい加減なことをやっているんだろう、このCMの企画を通した人の了見の狭さを疑います。CMはたった15秒しかありません。たかがCMです。が、しかしその影響力はものすごいものがあります。だから宣伝しているはずなのに。だから×××を起用したはずなのに。こんなに誤解を与えるようなことを言わせていいんでしょうかね。
 とっても辛い時、誰かに励まされるより「なら、やめちゃおうか」と言われたらほろりときますよね。それでもほろりときたあと、自分を立て直すことのできる人もいれば、そのままどんどん弱く・ヘナチョコになっていってしまう人だっているのではないでしょうか?自分で「やめよう」と決めたのならいいと思うけど、見守り続けるわけでもなく、さも優しい人間ぶってそのあと何も助けてあげもせず、相手の弱さだけを増長するような接し方は、いけないんじゃないかと思った次第です。
 「もう、がんばれないよ」と思うことは多々あります。誰にも相談できない苦しみだってあるでしょう。誰かの期待を重く感じることだってあるでしょう。そんな時、×××××、×××はどうしますか。
 心の痛みは、けがのように目には見えないし歯や頭やお腹のように「痛い」と言い辛い(いいづらい)ですよね。言えないからこそ苦しいんですよね。 ううううううううううううううううう… … … 。×××××がそうであるならば、まいった、まいったなあ。
 ☆★☆ちなみに私は×××は好きです。最近の髪型は似合ってねーぞとは思いますが…

 

 

---------

 

“がんばる” を言い換えた時に どんな言葉をあてるかなのでしょう。定義です。

 

“困難を前にして立ち向かう”でしょうか。

ここでまた次に “困難” と “立ち向かう” の定義が必要になります。

 

困難:今の自分の手には負えそうにないこと。未経験・苦手分野や失敗体験。

立ち向かう:取り組み続けること。納得いくまで取り組む姿勢。

 

 

2020年この年齢に及んでのぼくは、“できないと思うことはしない、出来る人を育てる”。

2004年当時のぼくなら “出来ないなんて言ってられない、やらなくちゃならない、やりたいから。理由があるから。希望を見い出したいから。←そういう環境・心意気でした。それを不遇・不幸・不公平だとは思っていなかった。←これは大いに思い出補正・美化していると疑った方がいいかも…とは思います。

 

 

確かに、

背伸びして似合わない仕事して、能力不足はモノになるまでひたすら昼夜を問わず時間をかけて取り組み準備して “誤魔化して”“無理して”いただけです。←こう吐露して守りに入ります。気持ちの休まる暇なんて欲してなかった。それより出来るように成りたかった。張り詰めてた。←“こういう人”を半ば呆れて憐れんで哀れんで“もう頑張るの止めにしませんか”“あなた自身を取り戻しませんか” …とアドバイスする人を受け入れず不信を抱くのが、ぼくという人間(の“かわいそう”“病んでいる”ところ?なの)です。

 

 

この記事を書くにあたって

先のCMを探す過程で

あること・あること、出てくる・出てくる

“頑張らなくていい”

“そのままのあなたでいい”

書籍に歌に動画にブログまで。

 

これには苦笑いです。

多分そうなんでしょうけれども…

響いて来ない。間違ったことは言ってないのに。

 

でも、

ただし、

 

もう立ち上がれなくなってしまった時、気力が消失した時、“よくここまで頑張ったな(頑張りましたね)” と告げてくれる人ならば信用できるorしてしまうかもしれない。 本心でも嘘でも常套句でも“認められている”と実感させてくれる人こそがお節介を焼くべきだ。 

 

その人は、垂直方向ずっとずっと下方、俯いた視線の先・地べたの景色を見てくれている。

 

“頑張るな”では救われない。

 

------

 

 

たとえそれが叶わない夢でも 自分を殺して生き続けるよりは

道ばたの小石になろうとも 今動かないよりはまだましなのさ

 

目まぐるしい時の流れなど 横目でにらみつければいい

変わらない心がある限り 人のそしりは通り雨のよう

 

幸福(しあわせ)の大きさなど計れないもの 不幸の深さは闇の奥まで続く

いずれに身をゆだねていたところで 明日が形を変えるわけじゃない

 

越えなければならないものがある

語らずに行かねばならない時がある

コップ一杯の水を一気に飲み干して 朝のうちに外の雨を感じよう

 

言葉に酔いすぎた人々は 満足という定期便を待つばかり

心は貧しくなっているけれど 現実には充たされた気分

 

踏切を通過する満員電車 あらゆるため息をつめ込んでいる

どこの駅で誰が降りようとも ベルにせかされ電車は走り出す

 

生きていくのがそれこそわずらわしい時がある

恥をさらすには それだけ利口になり過ぎて

だけど船はまだ港の中 乗り遅れそうなのは誰

間にあうさ 間に合うさ 遅すぎる事は無い

 

人を愛したり 人を拒んだり 何かを奪ったり 束縛されたり

人生のメニューはいつも多すぎて 一つだけを選べないでいる

 

つけっぱなしたままのブラウン管からは

欺瞞に満ちた笑顔とやさしさが

現実を伝えるニュースの合間に 土足のまま入り込んでくる

 

人は生まれた時すでに旅をしている

頭の中にそれぞれの地図を広げ

誰かとの出会いで立ち止まっても

旅人を引き止める鎖は無い

 

すべてが終わってしまったわけじゃない

今何かを始めればそれでいい

荷物をまとめようとしなくても

その中の1つだけ携えていこう

 

生きていくのがそれこそわずらわしい時がある

恥をさらすには それだけ利口になり過ぎて

だけど船はまだ港の中 乗り遅れそうなのは誰

間にあうさ 間に合うさ 遅すぎる事は無い

 

 

 

 

「7月26日未明」 吉田拓郎 1984年アルバム『FOREVER YOUNG』

 

 

決意や覚悟なんて胸に秘めたままにして、“語らずに行く” のがいいに決まっている。

 

誰かをどうにも一人にしておけなかったり

大切な人の求めに応じたりする時は別として。

 

 

発言・発信することに確固たる役目や効き目を発揮する人が確かに居る。 

 

 

でも、それを真似たり、それに憧れたり、、それに倣って「感謝を伝えたい」とか「勇気を与えたい」などの発言は、、、やっぱり、、、表に出さず自分の裡に深く刻み閉じ込めて内側へ奥へ芯へ傾け注いだ方がいい。 そもそもその発想自体に邪・不純物を見つけてしまう。自然、説得力・信念に欠けてしまう。

 

 

“語らずに行く” のがいいに決まっている。

 

 

 

 

先頭・ど真ん中を走った拓郎さんが2009年、“ガンバラナイけどいいでしょう” とした着地は、さらりと“真に迫っていた”。

 

聴き手へのメッセージではない。“拓郎さんが自身をあたたかく労って(ねぎらって)いるだけ” だった。押しつけがましさ、いい加減さ、無責任さ、歯が浮く軽さ、借りて来た言葉感、功名心が微塵も無かった。

 

 

それまでずっと自身を鼓舞し続けて来たところを…。

ガンバラナイけどいいでしょう。

 

 

誰かに向かってでなかったからこそ、

より多くの人を結果励ました。

 

 

 

本当の心の中が 言えない気がする

言える時が来ても 言わない気がする

きっとこの頃何かを皆 気にしてるんだね

誰かの顔の色も 気にかかるんだね

 

そこよりもっともっと それよりももっと

心が痛くならない つらくない所

例えば求める愛が 遠くても近くても

進んでいくだけが 自分と思ってた

 

でも

がんばらないけどいいでしょう

私なりって事でいいでしょう

がんばらなくてもいいでしょう

私なりのペースでもいいでしょう

 

心が歩くままでいいでしょう

そうでない私でもいいでしょう

がんばれないけどいいでしょう

私なりって事でいいでしょう

 

 

 

 

当時のLIVEでは、この曲に “私は今日まで生きてきました、そして今私は思っています、明日からもこうして生きてゆくだろうと” と若き日の自身の初期中の初期の作品を挿入しました。

 

 

でもちゃんと、後に、本当の心の中を聞かせてくれた事をファンは知っている。

 

------

 

 

 

その時

そこで

どういう言葉が出てくるか。

 

 

 

“がんばるな、ニッポン”

この言葉に救われている人がいるなら、

そういうことなんでしょう。

 

でも、この言葉が用いられたCMの中身=システム=新しいとされている働き方の在り様・有り方に今後、巣食われて蝕まれていく人が出てくる。それはコロナのせいではない。政府までが旅先でパソコン開いてお仕事しましょう、なんて言っている。こんなことが可能な職種は限られるにしても…  …  

 

そこまでの責任をサイボウズは負ってはいない。負う必要が微塵もありませんが “がんばるな、ニッポン”のコピーは著しく的を外している、というのがぼくの感想です。CMやめろ、とは言っておりません、念の為。  印象に残すという点からは成功しています。

 

 

 

 

□おまけ□□ “がんばる”補足。

https://ameblo.jp/2222picnic0213/entry-12167150536.html?frm=theme

 

香川まさひと さん = 最近の話題作は『監察医 朝顔』(の原作者です)

 

 

ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。