恨みの気持ちは皆無。苦い記憶でもない。幸運にもぼくの人格形成に悪影響を及ぼしてもいない。もしそうであるなら言い訳が出来てしまう。だから及ぼしてない。もちろん良い点は無い。
その日、家に帰って塞ぎ込んだりはしていなかった。翌日から学校へ行きたくなくなるという事もなかった。思い出のうちの一つと言うと幾ばくか“惨め”という言葉が浮かぶ。ここで今使った“惨め”とは、自分で自分を可哀そうだったのか?と自身を訝る気持ちのことだ。
でも やっぱり、恨みの気持ちは過らない(よぎらない)。浮かんで来ない。そもそも恨んでいないので許す・許さないも無い。それを許されないと怒ってくれる方はいるかもしれない。そうならば、ありがとうございます。苦い記憶でもない。大昔過ぎて当時の気持ちを忘れてしまった、薄らいで行き、いつしか消え去ったというわけでもない。自分を維持する為に・防衛する為に奥底に沈み込めているとも思わない。ただ淡々と事実だけ忘れずに残っていた。割と呆れるのみで感情を豊かに付随していない、きっと幸運にも。 単なる出来事だ。
上記、それ以降の本記事のきっかけは…
=== きっかけ ===== ※一部実際と異なる所もあるかもしれませんが大まかに思い出した内容。
先週深夜にCS放送でTBS「スクール☆ウォーズ」をたまたま見ました。 ※間の☆は番組表記に則って(のっとって)ます。
ある意味(笑) 伝説のドラマ((´∀`*))の更に伝説回(笑)でした。
松村雄基演じる大木君が教頭をぶん殴ってしまう。:理由:先に起こした暴力沙汰を職員室で詫びた際に、この事件を病気がちの母には言わないで欲しい、という約束を見事にあっさり教頭が反故にしてペロッと大木君母に言っちゃう。滝沢先生「教頭!(それは言わない約束!)」 教頭「あっ汗(ミスった~!!」。大木君母、発作に襲われ胸をおさえ倒れる。 次の場面:烈火・鬼の形相で怒り捲り猛進する大木君、逃げる教頭を捕まえバシっぐうパンチ! 大木君、入学早々退学リーチ。 教頭にも非があるが殴ったことを謝れば退学は免れると滝沢先生、必死の説得。そこで大木君は、、、。 伝説キャラ・イソップ登場。「なら(虚弱な)イソップが懸垂を3回出来たら俺も教頭に詫びようじゃないか」。※イソップと大木君は本来はお互いの理解者同士で仲良しです、念の為。 ひるむ(滝沢)ケンジ。「先生、ぼく、やります!」と大木君の為に難題解決(大木君の謝罪のきっかけand自身の懸垂3回)を買って出るイソップ。。。。。しかし、、、虚弱なイソップには、、、。 幾度となくトライするが叶わない、それでも大木君の為に。。。。 ついに大木君、そのイソップの姿に 「やめろーやめろー、もうやめてくれー」大粒の涙。職員室へ脱兎のごとく向かい… 教頭を前に自身のプライドとの葛藤、苦悶の表情。 そして 土下座、詫びる。。。
という回 不思議なもので なんだかんだで このシーン、ご存知ではないですか?(笑)
二話連続放送。
有名回が続きました。
109対0で川浜高校が相模一高に敗れたエピソード回。試合後の無気力・投げやりな選手たちの言動に情けなさと怒りを覚える滝沢先生。滝沢の魂の説教の導入時には鼻毛を抜く動作をする選手もいる演出。超失礼無礼非礼この上無し。 しかし滝沢の熱意に本心を揺さぶられ「悔しいです!勝ちたいです!!」と号泣しながら叫ぶ宮田恭男←ちなみにレコード・デビューした際の楽曲は…… 作詞は岡本おさみ(拓郎とのコンビ、代表作:落陽、祭りのあと)、そして!!作曲は我らが財津さん!!←ちゃんとこのブログにのっとりました笑 「相模一高に勝つのは並大抵のことじゃない!!」と今日の悔しさを忘れぬように・誓いを胸に刻み込む為の儀式として選手一人ひとりにド本気のぐうパンチ!!!ドスッとバシっ!! この場面の前には、圧倒的勝利を手にした相模一高監督がやはり選手たちをロッカー室で バシっ!ぐうパンチ :理由:後半の得点が前半よりも低い、少ない ⇒ お前たちは明らかに手を抜いた!相手に失礼だ!!
※ちなみにメジャー・リーグでは大量リードでの盗塁行為はブーイング対象で報復(デッドボールなど)を受けることもあります。
滝沢先生の行為を“体罰”と呼ぶと、これを容認する派とは噛み合いません。
←こう書くと早とちりして、ぼくが“体罰容認派”であると思っちゃうのは大間違いであります。
意見を交わす際にはお互いの用いる言葉の形式ではない内容=定義を確認せねばなりません。異なったままだと議論は足踏み、水かけ論となります。後述しますが、一部も全部も捉え損ない認識に瑕疵があると更に不毛、不快、失笑まっしぐらに陥り面倒となります。やがてそれをそこを指摘されて「そういう感想でした」「印象を抱きました」と逃げるくらいなら 最初に指摘・説教する前に きちんと読み取りましょう・受け取りましょう、とお願いしたい次第です。
問題とするなら、その“言い回し”ではなく、“ぶん殴ったという事実” の是非を問い合うべきです。
これを何と呼ぶかで言い合っても、踏み込めません。深まりません。相手を言い負かすことに固執し囚われるだけであります。
「体罰は絶対いけない!どんな理由があっても容認することは出来ない」
「いや、こ(そ)れは体罰ではない! 指導だ!躾だ!!生徒の成長を願った強い愛だ!!!」
(↑ここも読み取り間違い厳禁、ぼくの意見ではありません)
こんなやり取りはひたすらに不毛です。
「体罰は断固として否定する。どんな場合でも認められない。それは虐待に等しい!!」
「では競馬もダメですね。お馬さんのお尻を鞭で叩いて走らせて競うだなんてもっての他ですねェ」
「あなたとは議論になりませんね。馬が合いません!!」
「ウマい!!」
こんな感じで寒くて馬鹿馬鹿しいです。
==============
小学3年生の時の担任。
かれこれ40年以上前。
厳しい先生だった、、、
↑
この言葉が浮かび、こう書いたが
…適切・妥当でないと思った。
以下の事実を厳しいと称してはいけない。
“厳しい先生だった” と書いたぼくが、
そう振り返ったぼくが適切・妥当でなく
だから “惨め” だったのかもしれない。
忘れ物をすると…
その担任からの「罰」が行使・執行された。
クラス皆で各々(おのおの)忘れ物調査をし合う。
↑
クラス皆で各々、と書いた通りなので、
殊更に ぼくがターゲットになっていたという事ではない。
ここに記憶のすり替え、改ざんはない。
で、その「罰」が まあ 酷い。エスカレートする。
・教室の後ろに一日ずっと立って 過ごす
…に始まり
・教室の後ろに一日ずっと片足で立っている
・教室の後ろで一日ずっと両腕をあげて前に倣え(前に誰かいるわけではない)状態で過ごす。
・教室の後ろで一日ずっと正座、というのもあったが… これがマシに思えてしまう。
これらは全部、この担任の発案発令。
忘れものをした友達の道連れに
教科書、ノートに始まり鉛筆、消しゴム、定規と検閲・チェックされくぐり抜け合格するも
「(ポケット)ティッシュは?」のチャージに敗北、軍門に下る(笑)
この女性の担任(30~40代だったと思う)が 忘れ物撲滅の為に拵えた(こしらえた)自身のクラスの日常風景だった。
その友達と一緒にその日に受けた罰のメニューは…
なんだと思いますか?
せっかくなので。
でも、
皆さんの お人柄や経験や知見を軽く凌駕します。
… と思いますが…
・教室の後ろに午前中いっぱい立たされ、そして
給食の時間、クラス全体に向けて必ず泣いて謝れ
… というものでした。※一切脚色無し。盛ってません、真っ平(まったいら)です。
で、、、
はい
ちゃんと泣いて謝ってました。「忘れ物をしてごめんなさい」の締めの言葉は思い出しましたが、そこに至るまでに何を言ったかまでは思い出せません。でも まあ 小学三年生で教室の後ろに立ち、座っているクラスの皆が自分に注目しているというのは、それなりの圧ですよね。その圧を受けて言葉を発する、、泣けと指示されている、、、、不適切極まりないと思いますが、、、この要素が絡み合い、、、で まあ 泣いたのを覚えています。
こ
こ
これは
酷かったですね、酷くありませんか?尊厳を脅かされていましたよね?
学校嫌いにも不登校にもならなかったその時のぼくを今ちょっと労って(ねぎらって)あげてもいいですよね。
「酷い先生も居たもんだ」
今一度、念の為、断っておきますが
・忘れ物をすると日替わりの罰が下される
・その罰は教室の後ろで基本その日一日に及ぶ
・その内容は上記・前述の通り
…に嘘はありません。記憶の改ざんはありません。脚色・大げさ・盛り の三つありません。
先ほど、
この女性の担任(30~40代)が拵えた(こしらえた)自身のクラスの日常風景だった。
と書きましたが、罰が強烈でどれくらい続いていたか思い出せません。一週間か一ヵ月くらいか??? どうやってこの日常・異常が終焉したか覚えてません。 その程度の受け止め具合です。
この女性は、三年生・四年生の担任でした。
異常、と書きましたが、
ぼく自身が惨めであったかもしれない、と書きましたが、
クラスの皆、罰を受ける友達を面白がっていたというよりは、この女性を皆心底恐れていたという感じ(これは事実ではなくぼくの述懐・印象)でした。 この担任を おかしい、狂っている、不適切である、酷い、と思う雰囲気・余地は小学三年生にはなかった。 納得して受け入れていたとは到底言い難いが、ただ おかしい、狂っている、不適切である、酷い、と思うことすら無かった。あったのは “忘れ物をしたのだから仕方ない” という小学三年なりの諦め、幼い絶望感だった。乱暴な言い回しなら奴隷扱い、洗脳状態、新興宗教集団内催事。
先生が生徒をぶん殴る、痛めつけるのがTVドラマや映画の中だけではなかった昭和時代。しかも、単に教師が頭に来た末の行為で。
以下は中学生の時。
・バスでの修学旅行、パーキングエリアでの休憩時、再集合時刻を守れなった女子2名を、ぐうで殴る
・体育の授業、見本でバスケットのゴールを決めようとしたが失敗、思わず笑った生徒に往復ビンタを見舞う
両方とも体育の先生。
これはぼくの経験。
・部活の時間、こっくりさんをしていたのが見つかる(恥ずかしい汗、情けなくてゴメンナサイ)。
顧問激怒。腹にキック。うち一人は救急車で運ばれる。 ※床に直接座りながらのこっくりさんでしたのでキックしやすい状態だったのです。
※※でも小学三年生の時と同様でそれはそれでその時だけで終わる。= ぼくが知る限りは、該当教師が問題視されるような事態には至っていない。
なんらかの理由があって、
先生が生徒に目に見える・目に余る肉体的苦痛を与える。
念の為、また、ことわっておきますが
これをもってして 昭和の先生は野蛮だった とするのは大間違いです。
この人達は責めを負うべきと思いますが
これをもってして 昭和の先生どころか 今の先生にまで転嫁して
だから教師は信用ならない、最低の人種ばかりであるとするのは・ ・・
早計・軽率・迂闊・狭量です。恨むに値する最低な対象が居るとしても明確に限定すべきです。
… 対象を拡げてそう思ってしまう、口汚く罵る人こそがぼくは信用できません。
知らない他の人にまで当て嵌めて通じるわけがないのです。あなたの経験、見たことがこの世の全てでは無い。
更に ことわりますがこれを以て ぼくが
先生が生徒へ 上司が部下に 強者が弱者に 先輩が後輩に 経験者が未経験者へ
なんらかの苦痛を押し付けることを許容する人間である、と微塵でも捉えてしまう人がいるとするなら…そういう方は、普段からもっと読書してください、文字の羅列のプールくらい泳ぎきれる練習をしておいてください。ましてやコメントして説教するなんて、どんだけ馬鹿なんですか?と念の為、釘を指しておきます。 コメントするのが馬鹿ではなくて誤った認識をもとに解説・説教するのが馬鹿と申し上げておる次第であります。感想を抱くのはもちろん自由ですが、読み間違いの元に読み間違いと気づかずわざわざ助言してくるコメントは許容しません。
さて。
皆いつか
人に何かを教える、伝達する立場となります。
その際に
心理的圧迫、肉体的苦痛を与えることに効果・成果がある、熱意は伝わると本気で信じ実行する人、そしてそれを演出だ・愛だと言う人、
でも 実は 単に 自分の思い通りに動いてくれずに腹を立てているのが 原点ではないかと思います。
とある それなりの実績を有する 振り付け師のセンセイ。
とある アイドル・グループ、超高難度ダンスに挑戦!とかの触れ込み…
その女性のセンセ、練習中のアイドルの女の子たちに向かい
「やる気がない人は帰っていいですから !」と おっしゃる。
TVカメラが入っていてセンセは自己演出したのかもしれない。高揚した気合い入れだったのかもしれない。言葉通りには受け取らず読解せねばならぬ発言だったかもしれない。 真意は別にあるのを実際に踊る女の子たちは分かっている信頼関係が築けている間柄なのかもしれない。あるいは やっぱり、本気で ついてこれない人はダメ、歯を食いしばりついて来なさい!とそれを熱意・情熱と信じた発言だったのかもしれない。 でも ただ ぼくには「私の指導力は低いからね、よろしく!」の強者の開き直り、ちょっとしたまぐれの実績(頑張ったのは教え子達なの)に安住・勘違い・思い上がり・腰掛けた発言に聞こえた。 ※別にそのアイドルの女の子たちの肩を持つわけではありません。指導者として尊敬できないということです。
両者の間に信頼がある時、他人は踏み込むべからず
そういう空間は確かにある。
しかし
指導・伝達する側は その確かめようのない・目に見えない・手で触れられない “信頼” を拠り所とすべきではない。こんなもんに自らは寄りかからずに一切排除して接するようであるべきだ。信頼や熱意や愛を免罪符・錦の御旗に 自身の行為・言動・信念を 甘やかしてはいけない。いつか必ず誤る。
なぜなら
自身の努力・工夫・自省・教え子への理解とまなざしを放棄し
自身の葛藤を怒りの表出で安易に解決し
自身の成長を思い込みで阻んでいるから。
結局、じぶんかわいし、で相手を自分の充実感・達成感・満足を得る代物・道具として捉えている。自分の存在価値および存在意義を実感させろと強要している。その上で喜びを分かち合おう、と傲慢不遜唯我独尊に。
目上の人・指導する側への礼儀・敬意を欠いてはならない、態度や言葉遣いには気をつける。
同時に 一方は
不慣れな人間・未経験者・弱い立場への配慮・理解に思いを至らせ苦心せねばならない。
この時、そこに、
苦労はあっても
苦痛を押し付けるべきではない。自らが自らの不甲斐なさを痛むのは別として。
愛だ、指導だ、なんて本気で勘違いしているから責められちゃう。
頭に来た!腹立たしい!!
なぜこう言わないか、言えないか、
で、こう言う代わりに
ある監督さん。
(決勝戦で負けて)準優勝。
その賞状を選手たちの目の前でビリビリに破る。
これも許さない風潮が今。
目標の為なら暴力も精神的負荷、圧力も辞さず、は論外
しかし
挫折を拒み失望感を極度に恐れ
挑む前から 「過程が大事 結果を気にしないでね」ととろけるように甘い逃げ道を最初から提示するのは 真剣さと覚悟を萎えさせる。
それは愛や熱意からは程遠い。
勝負師と指導者は異なる。
自分の(欲の)為に従事する限りは誰かを痛めつけたり傷つけたりする事態に陥る。自身の怒りが最優先されて他人の痛みに鈍感・盲目をよしとして犠牲者を作り出す。
目標や目的が無い、希薄、執着していない相手に指導を施し成果を上げるのは至難の業。指導する立場の人間は自身の課題としてこの難問を知っておかねばならない。自身の課題としてその対処に苦心せねばならない。
滝沢先生は、
まず激しく震える怒りを直接生徒に言葉でぶつけた。その怒りが通じたと信じた時、泣きながら生徒一人ひとりをぶん殴った。
ぼくは滝沢先生を否定はしませんが、これをお手本にしたままの人は、自分本位であり指導者には向かないと思います。一人でやってろ、です。現実では誰かを切り捨てていくだけに止まらず、誰かに深い傷を負わせたままで生きていくからです。一生後悔も反省も償いもしないまま。ドラマと現実は大きく異なります。心は別個に存在しています。一人で何人もの登場人物を操れるシナリオとは違うのです。
※言っておきますがドラマ「スクール☆ウォーズ」は好きです。それが伝わる伝わらないはここまで意図しておりません、本記事では目的外です。念の為。
ぼくのブログカテゴリに
【好きな場面】
【ううむ…】
とありますが、そのどちらにも属さず
【ブログ】
に含めたのに明確な意図・意志があってのことであります。
ここまでどうもありがとうございました。
読了に感謝申し上げます。
ありがとうございます。