およそ人間社会というものが出来て以来、その集団の中に存在する成文化されない、暗黙の了解が存在して来た。ある程度成熟した社会ならそれを世論と呼ぶ。


そして、人間社会が組織化されてさまざまな国家が生まれ、成文化された法律が作られた。


しかし、法は絶対ではない。


ある権威や、政治的なシステムにより生成されたものであり、人間の社会生活を秩序あるものにするために作られたものであり、それは成熟する過程に於ける社会においては、民主主義による政治形態によって作られて行く。


独裁者が、国民の多くの支持を得ると、独裁者の思い通りの政治や法律作成が行われる。


しかし、独裁者国家と言われていない国々では、国民の民意を反映するために国家の為政者を選ぶための選挙が行われる。


それにはさまざまな形態があるが、多数決原理によって全ての事が決定される。


数による権力、より多くの人が利益を得るような人々が選挙で当選する。


それは、いつどこの社会でも同じであり、遠く欧州文明の曙である古代ギリシャ世界に於いてすでに形成されていた。


多数決による決定は、一見合理的に見えるが、実際はそうとは限らない。


多数派を占める人々が利己主義者であったなら、その総意は多数派である自分達の利益の実現以外には機能しないからである。


既に古代ギリシャに於いて、「衆愚政治」という言葉に顕された、民主主義の愚かな一形態がある。


これは、利己主義的な民衆が自己の利益を追求して選挙を行った場合にだけ陥ることではなく、十分に教育を受けた人々であっても、例えば偏見から来る誤った信念や、恐怖からの逃避、他人任せての成り行き主義、課題の先延ばしによる合意形成の失敗によっても起こる。


社会的判断力が不十分な多くの市民が意思決定に参加することで、議論が停滞したり、煽動家の詭弁に誘導されて意思形成を行い、合理的ではない政策執行に至る場合がある。


また、知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁から来る心理的な同調、刹那的で深い考えに基づかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正義や大義名分、あるいは利己的な欲求など、さまざまな誘引に導かれ意思決定を行うことで、コミュニティ全体が不利益を被ることもある。


また、場の空気を忖度することで、構成員の誰もが望んでいないことや、誰もが実現不可能だと考えていることに合意するという理不尽な行動に出ることさえある。


大衆論の見地から見ると、大衆を構成する個々の人格の高潔さや知性にも拘わらず、、総体としての大衆は群衆生(衆愚性)を現実化する可能性がある。


衆議を尽くす段階で、しばしば最悪のタイミングで最悪の選択で合意することは、全く愚かしいが、現実に起こり得る事実である。


しかし、上意下達は、リ━ダ━の人間的な器が大切であり、下位の者に対する配慮や、下位の者の能力を発揮させるための正しい方法を見つけられなければ、ただの暴君(パワハラ)になる。


近代民主主義においては意思形成(人民公会)と意思決定(執政権)を分離することでこの問題を回避しようとするが、独裁と民主的統制の均衡において機能しにくい面がある。


古代ギリシャの民主主義政治においては、その平等性や公平性を担保するために、アテナイでは公職者を選ぶ方法として籤引きが行われ、専門で知識がない者が国家の重職に就く場合もあり、全く政治が機能しなかったり混乱したケ━スもあった。


これは、無制限に民主主義思想を拡げた結果であり、平等という観点に対しての極めて幼稚な判断が招いた結果である。


欧州の専制君主主義に先立って民主主義を実現したことは素晴らしいが、それは古代ギリシャがポリス(都市国家)であるから可能ならしめた業であり、民主主義そのものが成熟していくのは、古代ロ━マを経て、長い中世の絶対君主制の国家体制を、再び市民が突き崩すルネサンス期の市民革命時代の後である。


しかし、普通選挙以外にも、国民投票や三権分立による司法判断があるにも関わらず、為政者個人、あるいは個別集団(派閥)の利益の為に真に国民のための政治というには程遠い現実がまかり通っている。


とても残念だ。