ホツマツタヱのほうが書き途中のままが気になる今日このごろです
ホツマツタヱはひとつの事柄に対しての内容が40綾のところどころに点々と散らばっているので、結局全体を読めていないと見落としてしまったりで、「あーこのことは、確かこの章にも書いてあったな」とか本を開けばパラパラ行ったり来たり
ちゃんと見てみようと思うと時間がかかります
なので、生活第一なので時間短縮もあってよく私はブログに「記憶から書いてます」っていうふうにして間違えたときの為の予防線を張ってしまいます
本業ではないので研究者さんにはとてもとても敵いません
あくまで個人の読書感想的な感じといったら良いのでしょうか、思いのままです
最近、どん底に落ちた運気が少しづつ動き出した手応えがあり、少しづつ忙しくなってきました
私は四柱推命でみると「羊刃」を持っているのすが、運気の振り幅が非常に大きいです
でも、昔から「あなたは先祖に守られている」と何人にも言われていて、最近も占術の先生に言われました。
若い頃聞いたのは、私は修行の魂だけれどもあの世の人が「守る」といったら絶対だから大丈夫だ、と。
修行といわれれば本当によく「修行か」って思わず言いたくなることもあり。
若い時はそういうことに盲でひどく落ち込んで生きていくのも辛くなったり、泣きたくなったり、先を見渡せなくて目の前の苦しさしか見えていなかったと思いますが、ある程度年齢を重ねると(人生のターニングポイントです)多少はは落ち込んだとしても長い目での「今」は一瞬の出来事にすぎないということ、物事は変化をする、という事がわかってくるので昔ほど追い詰められるようなことはなくなってきました。
今の調子でもっともっと運気に操られるのではなく、運気を上手に乗りこなしていけたら、、、もっともっといいなと思います
私がなにか言えることがあるとしたら困難を乗り切る秘訣は「諦める力」。これにつきます。
言い方を変えたら「こだわらない」と同じです。
なんでも「ま、いっか!」とヘラヘラと笑ってられるいい意味でのいい加減さ。
悩み事ひとつのに対して、一点集中して頭で悩み始めると体の動きは止まってしまうので、逆に外に出たり体を動かして頭の動きを止めたり、そんなエネルギーもないほど疲れている時は眠ってしまう、等、とにかく自分を苦しめる悩みごとから「避ける」「逃げる」「遠ざかる」につきます
(そこで終わるのではなくちゃんと「どうしてこの出来事が起きたのか」は客観的に考えるのも大事)
今はスマホとかあるから肝心なことを考えなくて済んでしまうのだけれども、人が人らしく生きるためにはスマホに考えることまで委ねたら駄目ですね
スマホは100%受け身なので、能動的に考えることもしないと、自分の力で「氣」を出せなくなってしまいます。
それで、「氣」のことなのですが、
私は必ずと言っていいほど「氣」をひどく消耗してしまう場所があってそのNo.1は「学校」なのです。
どこの学校とかではなく、どこでも。
子どもがいる場所だからエネルギーをもらえると思うじゃないですか。でも学校であればどこでも帰宅後には動けなくなるくらい「氣」が枯渇して強い眠気に襲われて数時間深く眠って「氣」をチャージしているパターンは相変わらずです。
先日も三者面談後、そんな感じでした。
たぶん、これは個人的な予想なのですが、、、
学校って、だいたい建物のつくりが似たりよったりじゃないですか。
なにか建物のつくりに関係しているような気がするんですよね。
部屋が向かい合わせの廊下って、家のつくりでもタブーなんです。学校ってそういうつくりも多いじゃないですか。
階段の位置、水場の位置、コンクリート、そういうものもあるし、学校は「なんかここ嫌な感じ」という場所や吹き溜まりや行き止まりの場所も少なくはない気がするんですよね。建物が冷えて冷たいし通気性もよくないので湿気も起きやすいですよね。
そういう場所って家のつくりだったらわりと「悪い」ほうに入りますよね。
家と同じで浄化槽の位置も大事だと思ったりもします。
図書館の仕事の時は、大学でしたが近代的な建物でそんなに「氣」を奪われる気がしなかったです。
学校の環境が荒れやすいのは建物の構造と「氣」の関係も少なからずはあるんじゃないでしょうか?
もっと、木目が見えたり建物が呼吸していたら人の「氣」ももっとゆったり穏やかになれるかもしれないのにな〜と思いました
昔は、「氣」の通り道を大切にしたまちづくりをしていました。そういうのも大事ですよね。