私が直傳靈氣の伝授を受けたのはかれこれ10年くらい前。

アロマテラピーやハーブの資格に向けて猛勉強中、マッサージをすると人の氣を受けてしまうことからおすすめされてはじめて知りました。

昔ながらの「手当て療法」のことです。





Wikipediaより抜粋
臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)は、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者である。

生誕地は、岐阜県山県郡谷合村(現在の岐阜県山県市)である。

 職業は、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家後藤新平の秘書[1][要ページ番号]などさまざまに経験する。

その体験から「人生の目的とは何か」という大命題の探求から、禅の道に入り、真の悟りともいえる安心立命(あんじんりゅうめい)の境地を目指し修行するも、どうしても悟りを得られず、悩みぬいた末に禅の師に相談したところ、

「それなら一度死んでごらん」

と答えられ、「自分の人生も、もはやこれまで」という覚悟を決め、1922年春(3月または4月と、文献によって記載が異なる)に京都の鞍馬山にこもって断食を始める。修行のための断食と言うよりは、死を覚悟してのものだったらしい。

 断食に入り3週間目の真夜中ごろ、脳の中心部あたりに落雷をうけたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明の状態に陥る。

 数時間後、ふと気がつくと夜が明け始めた頃で、心身爽快な気分に満ちて目覚め、その衝撃のときに感じたエネルギーが心身を貫き、体内との共鳴、一体感を達成し、求めていた悟りの境地を完成したことを知る。 

 悟りが得られたことに喜び勇んで山を降りる途中、石につまづき足の指の爪がはがれ、思わず手を当てたところ痛みが去り、血が止まり即座に治癒してしまったという。

そして、山のふもとまで降りてくると、小さな食堂があり、主人が止めるのも聞かず腹いっぱい食べた。

主人の孫娘が顔が腫れるほどのひどい虫歯で、頬に手を当てるとたちどころに痛みが引いた。

さらに、家族にも試したところ即効的な効果があり、「広く世の中の人にこの力の恩恵を与えたい」との思いから、工夫研究の結果、この能力を他人に伝授し、心身改善に活用する方法を見出す。

これが臼井霊気療法という手当て療法の始まりとされる。

3日間、片道2時間かけて通いました。


最後の日の帰りの電車の中で、近所のママ友達からメールがきました。
「子どもを乗せて自転車に乗っていたら車にぶつかってふたりともそのまま入院になり、子どもは顔面の怪我の手術をした」
と。

そのママ友達にはアロマテラピーの施術の練習台に協力してもらっていたので、その時に「遠隔靈氣を習ったけどやってみる?」と聞くと「ぜひぜひお願いします」と返事が来たので、帰宅後に遠隔靈氣が本当に大丈夫なのか半信半疑でありながらもやったのを覚えています。

そうしたら、靈氣が始まったのが体感でハッキリわかった、と後から連絡が来て大変驚いて感動していました。我慢していた痛みが和らいだり、術後の傷跡が全く残らなかった、など「靈氣のおかげ」と言ってくれてそこまで信用してくれたことのほうが有り難かったです。

その後アロマ仲間とのアロマの施術を練習し合うときも、みぞおちに私の手が乗ると反対側の背中の同じ場所がホッカイロを当てたように熱く暖かくなると言われました。時間が経ってもずっとその温かさが残って持続しているとも。

私の母は、私が子供の頃に「世界救世教」という新興宗教に入っていたことがあってよく本部に連れて行かれて何もわからないまま「手かざし」を受けていました。効果はよくわかりませんでしたが、救世教の教祖をされていた岡田茂吉はよく手かざしで人々を治していたようです。

信じる人、信じない人、様々だと思いますが私自身は「氣」が通りぬける感じや、直傳靈氣を皆さんで行う時にビリビリとした低周波のようなものを感じるとみなさん口々に仰有っていて体の感覚でちゃんと感じられているので独りよがりでもなく「氣」の存在を信じざるを得ません。

むしろ、現代の生活様式や環境汚染や食べ物の添加物などで心や身体が汚れてしまうことと比例してそのような感覚からどんどん遠ざかってしまったのかもしれません。

本来、きっとみんなが持っていた自己治癒能力なのだと思います。

ひとりよりも大勢のほうがよりはっきり感じられるというのも確かだと思います。

私は直傳靈氣の修了者ですので修了者さんたちにお願いをするとご厚意で遠隔靈氣を無償で受ける事ができます。

アロマテラピーとともに直傳靈氣も今再びおさらいをしている最中です。
アロマテラピーも靈氣も「触れる」というコミュニケーションを取ることが出来る事がなによりいいとことだと思っています。体温を感じるだけで「生命」が伝わってくれればそれが伝われば。言葉はなくても。