「千枚地蔵流し」

香川県
弘法大師 御出生地 四国根本之御寺

屏風浦海岸寺

「千枚地蔵のいわれ」
千枚地蔵は千枚通しと同じく大師が一筆を持って千枚に通された地蔵尊で三界六道の隅々までも身を千々にわかちて迷えるものを救い給う地蔵尊の誓願力と大師の念力によりて、この世に未だ妄念をかける亡者、あるいは成仏を意識せざる幽魂、ことに変死したる迷者の廻向にすぐれ、なきがらの行方不明なるとき現場と思われる辺りにてこれを供養するに日ならずして発見せらるるなど霊験多し


少し前、ある方のブログを読ませていただいてはじめて知りました。
こちらの海岸寺さんから、お地蔵様の御札を送っていただきました。
それとは別に自分でも御札を作ってみました。


お地蔵様のお姿を作ることにも功徳があるそうです。地蔵流しとは違いますが「印仏」として写経のようにお寺に納めるというのもあるそうです。

私は前ブログにも書いたことがあるのですが、何年も前に夢で「おん かかか びさんまえい そわか」という御真言を教わった事があって(目が覚めて調べたら地蔵真言だった)、それによってお地蔵様にはちょっとした特別な想い入れがあります。

また同じ頃、真言宗のお寺で千枚護摩供養をしてもらうために木札を宿題で書き続けた事があったり、写経を書いて焼いたり、等をしていたこともありその霊験や体で実際に感じる説明しづらい不思議だけれども軽く清々しくなる多幸感に似た感覚の事はよくよく知っています。
ですので、全くはじめての感じもせず抵抗も感じません。自身の経験から一般の人が誰でも出来てとても信頼出来る供養法だと思っています。

千枚地蔵流しをしてきたのですが、やはり肩から上が特に軽く頭もクリアになり多幸感に満ちた感覚になってこう思いました。
真言宗のお寺でお加持をしてもらった時よりも強い効力を感じるな、と。

供養とは優れたお坊さんに依頼する事ももちろん素晴らしいですが、自分ですることに勝るものはないかもしれません、

先日、とげぬき地蔵寺で読経を最後まで聞いた時も同じ感覚になりました。ものすごくものすごく心が安らいで癒やされたのです。隣りにいた娘に「なんだかすごく癒やされた」と言いました。(お寺を出てしばらく時間が経つとだんだん普通の感覚に戻ってきました)

そのようなことかあるとそのたびに「あぁ、亡くなった御霊が喜んでいるんだなぁ」ととても嬉しくなります。
この喜びは、私にとって何にも代えがたい喜びだと感じてしまうのです。

もし、自分や身の回りの人が精神的に辛い悩みを抱えていたらまずまずご先祖様やなにかの御縁で繋がった方の中に過去同じ苦しみを抱えていた方がいる、と私は疑います。

何でもかんでも「霊障」といって邪魔物として捉えるのではなく、「助けてほしい」とメッセージを送っているのだと思うので。

メッセージを送れる距離にいる御霊はまだいいです。気付いてもらえているから。

どうにも手がつけれないくらいの「魔」というものあるとは聞きますが、私は見たことがないので(たぶん)そちらのほうは専門家に委ねます。

(自分は神だとかいう人に過去実は何人も会ってきましたが魅力があるのでそちらに吸い込まれていく人は多いけれど、私のほうは耐えきれずに、ほぼ皆強引なくらいに突っぱねて二度と会わないと誓って縁を切ります。が、もしかしたらそういう人が「魔」なのかもしれません。この世に穢れを背負って生命を受けたのであれば、人間だという自覚と神ではなく人だという謙虚さを見失ってはだめだと思うのです。神になるのは今世を生き抜いて死を迎えてから。人間らしく粋も甘いも経験しながら「感動」を伴って生きる人は奥が深くて輝いて見えます。そういう人と共に有りたいです。)

手の届かない場所にいる場合もあるので(神様でも手が出せない領域がある事を夢で教えてもらったことがあります。その場合は想像でしかありませんがもっともっと上にいる存在?が知っているのかもしれませんし、もっと想像もできない領域かもしれません)

お地蔵様というのは、ひとり残らず救われるまで如来にならず菩薩のままでいると決意をして、地獄に落ちてしまった御霊までも追いかけて助けに行ってくれる仏様です。

地母神ともいい、古来インドでは女性だったのですが後世になって形を変えて今の形になったとも本で読みました。

日本でいうと伊邪那美命を連想したり、また千枚地蔵流しは実際に行ってみるとホツマツタヱの中で二神が流産したという「ヒルコ姫」を川に流す記述と同じ供養法によく似ていると思いました。

昨日は病院の待合室で「スタディーズ 華厳経」を読んでいました。


 

 


いきなり華厳経を読むのは、挫折することが目に見えているのでこちらの入門書は本当におすすめできます。

華厳経のことはまた別の時に。

この本を読んで仏教と教えと神道は最終的には全く同じところを目指していると心から思うことが出来ました。
研究や学問にすると頭で覚えなくてはならなくなるので、覚えようと思わずに胸の奥で噛み締めるように感動とともに味わって読む読み方がおすすめです。
感動をすれば意識しなくても自然と記憶にも残ります。感動を伴った記憶は一生忘れることはありません。

私も今どきの言葉を使うなら、重めのHSPではないかと思います。それゆえにこれらの効力を「喜び」として体感として受け取ることも出来ているのだと思います。
今朝は始発で川に御札を流しに行ったのですが、普段本当にすぐに体が重くなって思うように動けなくなることの多い自分への最高のご褒美だと思いましたキラキラもしかしたらこれをするためにこの世に生まれてきたのでは?と思うくらいに。

今、本当に多いですよね。HSPといわれる方。
もしかしたら、目に見えない御霊を助ける役目の人、カルマを掃除するための人が増えているのではないかと思いました。

因みに、お寺さんから送ってもらった御札はきっと読経してもらっていると思うので効果を感じたのかとも思ったのですが、その後で場所を変えて自分で作った御札を流した時も殆ど違いを感じませんでした。作る時も地蔵真言を唱えて作りました。
けれども、次回は自分で作った御札も一度お寺でお経をあげてもらおうと思っています。