しばらくぶりのBlogです。


あれから、目まぐるしくいろいろなことが起こってBlogを書く余裕が少しもありませんでした。


今現在非公開にしてあるBlogには我が家の因縁のこと、自分自身の身の上に起きた霊現象や夢や困難などのことも、誰にも話せない代わりにこちらで書いていました。


やっぱり人間てね、なんだかんだ強がっていても誰かに聞いて欲しいものなんですよね(笑)

そういう話しづらい事は知らない人なら言いやすかったりもして。


それで、何が起きたか。

お寺で年に1回の御護摩に参加して。

その本当に直後。


今までの悩み事や心配事が一掃される事が次々と起こりました。


娘たちがいよいよ巣立つ年齢が近づいてきたこの頃。老後をひとりでどう過ごそうか、、、そんな事をリアルに考え始めつつありました。


おそらく。

生まれる前からこの人絶対に深い繋がりだった、と確信した人が現れ、けれども誰にも言わないでいたのですが、向こうから声を掛けてもらいました。

追い風に押されるような勢いで予定していた人生と違う人生歩む流れになってきました。


同時に、荒れて荒れてはじめて子供をもう愛せないかもしれない、といくら子育てに関しては忍耐強い自分でもねをあげそうで施設に相談しかけていたくらいの娘。

それが転じたのは一瞬のことでした。

その瞬間から、どんな親子よりも労わりあい、尊重しあう、そういう明るく温かい幸せな親子関係になりました。


祈りの完成


そう書いたのは、、、

お寺の御護摩で、私は何時間も何時間も声が尽きるまで真言を休むことなく唱え続けました。

終わったあとは声が枯れて出なくなっていました。


祈りの途中で、トランス状態に何度かなったのだと思います。本当に燃え盛る炎の中に仏様が見えた気がしたんです。その時に今までの困難も悩み事もその炎に安心して託す気になったんですね。

燃やして何もなくして燃やし尽くしてもいいという気になったんですね。


その炎は何か。

それは自分自身の心の炎でもありました。


なんだか、こう書いてても泣きそう。


そうして、終わってから祈る事に執着していた自分も手放してしまった感じで、やらなきゃやらなきゃと思って祈っていた習慣もふっと肩の力が抜けて、少し手を抜くことができるようにもなりました。


祈る


事は大事な事ですが、一生懸命になるあまりに祈る事に執着してしまう事に気が付きました。

祈りとはもっと穏やかで優しいものなのに。


そういうことを心から思えたのは、相方と出会ってみて実は驚くほど共通点があって、星を占えばなかなかここまではないほどの相性の良さ最良の時期とと出る。

仏様が願いを叶えてくれるという目に見える形とは。神秘でも奇跡でもなく普段の営みの中にある浮き沈みをおこす実相のことであって、私ご利益とは常に移り変わる「ご縁」のことだと思っていたからです。

直感と占いが一致していた。つまり直感で思うところがあるのであれば占う必要なんてないらしいです。


けれども、いくら魂の絆といえる出会いだったとしてもこれまでの生き方の記録が堕落した考え方や自分勝手な事を積み重ねていたら普通にスルーされたり自分もスルーしたりしてしまうに違いないんです。


うちらは、少なくともそうじゃなかったということだけは自負できる。泣いても苦しくても困難から逃げることをしなかったな、互いに自分の子どもを育てなければいけない時期に自分のために遊び呆けたりしないで無欲に常に何があっても子ども優先に育ててきたり、その積み重ねがあっての考え方や向き合い方の積み重ねで得た信頼なのだろうと思います。


祈りが完成する時というのは祈る事に対する執着から離れてからが本当の完成ということなのですね。

祈らないということではなく。


この人生でよかったと人生の最期に思えられた時が本当の幸せだと思うのでまだまだ気を抜くわけにはいきません。

出来事の困難は本当の不幸ではなくて。本当の不幸とはこの世を去る時に未練や後悔、思いを残すことであると思うから。


人生を終える最後の最期の時までためにまだまだ頑張らないといけないな。


なんの集客なども関係なく、ただただきままでつたない、誤字脱字も多い日記なのに、ありがとうございます。