日蓮大聖人の治病大小権実違目について、用語の解説を中心に見直してみました。
 ひとつひとつの語句は難解に感じますが、述べたい趣旨は単純です。
 それは“体の病は薬で治るが、心の病は薬では治らない”ということ。
 それを表現するために無量不可思議阿僧祇劫もの昔の名医を対比させる形で登場させています。時間的スケールを大きくとり、過去遠々劫(オンノンゴウ)から未来永劫にわたって変わらない事象であることを教えてくれています。
 そして、その根底には、仏に備わる智慧と慈悲が燦然(サンゼン)と輝いています。 

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 {それ人に二の病あり。一には身の病・いわゆる地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・いじょう四百四病なり。この病は設(タト)い仏に有らざれども・これを治す。いわゆる治水(ジスイ)・流水(ルスイ)・耆婆(ギバ)・扁鵲(ヘンジャク)等が方薬・これを治するにゆいて、癒えずという事なし。二には心の病・いわゆる三毒ないし八万四千の病なり。この病は二天・三仙・六師等も治しがたし。いかにいわんや神農(シンノウ)・黄帝(コウテイ)等の方薬、及ぶべしや。(以下略)}

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 人には二つの病がある。一つは身の病(体の病)。身の病には、地大百一・水大百一・火大百一・風大百一の、四百四病がある。これらの病は、たとえ仏でなくても治す事ができる。治水(ジスイ)・流水(ルスイ)・耆婆(ギバ)・扁鵲(ヘンジャク)などが薬を使い治せば、癒せずという事はない。二つめは心の病である。心の病は三毒であり、八万四千の病である。この病は二天・三仙・六師なども治すことは出来ない。ましてや、神農(シンノウ)・黄帝(コウテイ)などの薬が及ぶことはない。

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 “人には二つの病がある。一つは身の病(体の病)。身の病には、地大百一・水大百一・火大百一・風大百一の、四百四病がある。”

 仏法上においては、体の病には四百四病があるという事になっている。
 これらは“地・水・火・風”の四大(シダイ)から成っている。
 
 四大とは古代インドにおける元素論であり、物質を構成する四種の根本の元素をいう。
 “大”とは梵語(ボンゴ)マハーブータの訳で、元素という意味である。また、“大”には、広く宇宙に遍満するという意味もある。

 人の体において“地”とは、骨、髪、毛、爪、歯、皮、筋肉などにあたる。
 “水”は血液などにあたり、“火”は体の暖気などにあたり、“風”は呼吸にあたる。

 人の体は四大によって作られているとされる。複数ある、人に起こる病気の原因の一つとして、四大の不調和がある。

 “これらの病は、たとえ仏でなくても治す事ができる。いわゆる、治水(ジスイ)・流水(ルスイ)・耆婆(ギバ)・扁鵲扁(ヘンジャク)などが薬を使い治せば、癒せずという事はない。”

 治水とは、金光明経に説かれる名医である。
 無量不可思議阿僧祇劫(ムリョウフカシギアソウギコウ)もの昔、宝勝如来の像法時代に天自在光王がいた。
 王は正法を信じ、法に随って世を治めていた。
 その王の国に治水という長者がおり、医術に詳しく多くの衆生を病苦から救った。
 ある時、国内に疫病が流行した。その時、治水は老いていたので治療にあたる事が出来なかった。
 しかし、子の流水が治水から法を学んで治水の代わりに治療にあたった。
 そして、多くの衆生を病苦から救った。
 流水は古昔(コセキ)の名医の代表格である。

 耆婆(ギバ)は釈尊在世時代の名医である。医学を7年学び、のちに難病を治して“医王”の名をあげた。
 仏教を深く信奉し、忠節な大臣として阿闍世(アジャセ)王に仕えた。
 阿闍世王に対し釈尊に帰依することを勧めた一人であり、王を帰依へと導いた。

 扁鵲(ヘンジャク)は中国、周時代(紀元前11~3世紀頃)の名医である。
 少年時代から長桑君(チョウソウクン)のもとで医術を学び、すべての医術に長じた。
 扁鵲の医術と名声は長く中国に伝えられ、名医の代名詞ともなった。

 体の病に関してはこれらの名医たちが調剤した薬によって、癒せないという事はない。

 “二つめは心の病である。心の病は三毒であり、八万四千の病である。”

 三毒とは、貪(トン)・瞋(ジン)・癡(チ)の三煩悩(ボンノウ)である。

 煩悩とは、心身を煩(ワズラ)わし、悩ませるはたらき、という意味。

 この三種の煩悩は、全ての煩悩の根本であり、全ての煩悩を含み、衆生を今世、後世にわたって害するので毒と名づける。

 貪(トン)とは、むさぼり。満たされず、際限なく貪(ムサボ)ること。

 瞋(ジン)とは、いかり。満足がいかないことへの瞋(イカ)り。いかりの感情に左右され、他人を恨むこと。

 癡(チ)とは、おろか。根本の真理、正法を知らない癡(オロカ)さ。
 なかでも癡は、無明(ムミョウ=物事をありのままに見られない迷いの生命)であり、最も根源的なものとされる。

 八万四千の病とは、八万四千の煩悩という意味。
 八万四千の塵労(ジンロウ)ともいう。
 一切の煩悩について説き明かした法門(教え)のことを八万四千の塵労門という。
 八万四千は、実際の数を示す場合もあるが、通常は大数を表すので“数多くの”という意味。

 二つめは心の病である。心の病とは三毒の煩悩であり、八万四千の煩悩の事を指し示している。

 “この病は二天・三仙・六師なども治すことは出来ない。”
 
 二天・三仙とは、釈尊の出現以前に崇拝された二天と三仙人のこと。

 仏教の内道に対して、仏教以外の教えを外道といい、外道の信仰対象となっていた。

 二天とは、もともとはインドのバラモン教の神である摩醯首羅天(マケイシュラテン)と毘紐天(ビチュウテン)。

 三仙とは、サーンキヤ学派の祖である迦毘羅(カビラ)、
 ヴァイシェーシカ学派の祖である漚楼僧佉(ウルソウギャ)、
 尼乾子(ニケンシ)外道の祖である勒娑婆(ロクシャバ)のこと。

 六師とは、釈尊の在世当時に中インドに勢力のあった六人の外道論師のこと。

 人間はたとえ何を行っても悪にも善にもならないという、道徳否定の富蘭那迦葉(フランナカショウ)。
 すべてはあるがごとくにあり、なるがごとくになると唱える、自然主義的宿命論の末伽梨拘舎梨子(マガリクシャリシ)。
 人知に疑いを持ち、判断中止の思想を主張する、懐疑論の刪闍耶毘羅胝子(サンジャヤビラテイシ)。
 人間は死ぬと無に帰すという断滅論を説き、したがって善悪の業の果報も受けることがないとして、現世の快楽説と唯物説を主張する阿耆多翅舎欽婆羅(アギタシシャキンバラ)。
 因果否定論の迦羅鳩駄迦旃延(カラクダカセンネン)。
 ジャイナ教開祖で、苦行論の尼乾陀若提子(ニケンダニャクダイシ)。

 この六派は常に争論し九十五派ほどに分かれていたが、釈尊により徹底的に論破された。
 この病(心の病)は、これら二天・三仙・六師などが治すことは不可能である。

 “ましてや、神農(シンノウ)・黄帝(コウテイ)などの薬が及ぶことはない。”

 神農とは、中国古代の伝説上の帝王。
 易経(エキキョウ)によれば、初めて民に農耕の道を教えたので神農という、とある。
 数多くの草木を嘗味して製薬の法をはじめ、火をもって徳として民を治めたという。

 黄帝とは、中国古代の伝説上の帝王。
 五穀の栽培を教え、衣服、家屋、文字、医術などの発明者とされ、中国に初めて文化生活をもたらした人物とされている。
 
 ましてや、神農・黄帝などが調剤した薬が心の病を治すこともない。

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 以上、日蓮大聖人の治病大小権実違目について、用語の解説を中心に見直してみました。
 ひとつひとつの語句は難解に感じますが、述べたい趣旨は単純です。
 それは“体の病は薬で治るが、心の病は薬では治らない”ということ。
 それを表現するために無量不可思議阿僧祇劫もの昔の名医を対比させる形で登場させています。時間的スケールを大きくとり、過去遠々劫(オンノンゴウ)から未来永劫にわたって変わらない事象であることを教えてくれています。
 そして、その根底には、仏に備わる智慧と慈悲が燦然(サンゼン)と輝いています。