【2024冬ドラマ】『大奥』

2024年1月26日投稿 

感 想 

第2話まで視聴済。正統派の大奥が帰ってきた感じ。将軍としては活躍があまりなく地味ですが、大奥は相変わらずのパワハラ三昧。ドラマの作りが、御台様がラスト手前まで虐められ、ラストで思いの丈をズバッと言い放つのが痛快でスッキリする。

タイムマシンがあれば、ぜひ大奥の実態を見てみたいです。では、また。

作品情報

 

 

 

 

2019年に「大奥」シリーズの完結作としてオンエアされたフジテレビ開局60周年特別企画「大奥 最終章」以来、約5年ぶりに「大奥」が復活。
第10代将軍・徳川家治との政略結婚を強いられる、五十宮倫子役小芝風花。令和版として、“愛”をテーマにした「大奥」史上最も切なくて美しいラブストーリー。亀梨和也が、数奇な運命に翻弄される将軍・家治を演じるほか、西野七瀬、森川葵、宮舘涼太、栗山千明、安田顕ら多彩なキャストが華を添える。

ストーリー
時は江戸中期。景気は悪化の一途をたどり、民衆は質素、倹約、勤労の日々を強いられていた。格差は広がるばかりで、人々は、この景気を改善し、民を豊かにしてくれる将軍の登場を待ちわびる。そんな中、皇室の血を引く公家の娘・五十宮倫子(小芝風花)は、第10代将軍・徳川家治(亀梨和也)との政略結婚を強いられ、京から江戸城本丸にある大奥へ渡る。
大奥には1000人近くにもおよぶ将軍に仕える女性たちがいた。たった1人の天下人の寵愛を受けるべく、女たちの激しい戦いの火ぶたが切られる。一方その頃、大奥、そして江戸幕府を、混乱の渦に陥れようと、ある人物が陰謀をくわだてていた。

主要人物

小芝風花 /五十宮倫子 役
東山天皇の皇子・閑院宮直仁親王の娘。京育ちで人を疑うことのない純真で優しい性格だが、一方、心(しん)は強く利発。朝廷と幕府の橋渡しとして、次期将軍である徳川家治と政略結婚をさせられたことで、逃れられない運命に翻弄される。やがて将軍正室として男子禁制の大奥へ渡ることになるが、京にいた頃からの幼なじみである久我信通に思いを寄せている。
亀梨和也 /徳川家治 役
第10代将軍。父であり第9代将軍の徳川家重が謎の死を遂げ、将軍の座に就く。幼い頃より聡明で、祖父である第8代将軍・吉宗から目をかけられ、直接帝王学を学ぶエリート教育を受けてきた。苦境に陥る幕府を立て直したいと考えて行動に移すが、田沼に秘密を握られる。愛におびえ、愛を知らずに数奇な運命に翻弄されながらも、懸命に生きる。

第10代将軍 徳川家治(いえはる)

江戸幕府の第10代将軍(在任:1760年 - 1786年)。

第9代将軍徳川家重の長男。
 元文2年5月22日、第9代将軍・徳川家重の長男として江戸城西ノ丸にて生まれる。母は梅渓通条の娘・梅渓幸子(至心院)。幼名は竹千代。幼少時よりその聡明さから、第8代将軍であった祖父・吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。吉宗は死亡するまで、家治に直接の教育・指導を行った。それは、言語不明瞭だった家重に伝授できなかった帝王学の類を教えるためでもあった。家治は文武に明るかったが、これも吉宗の影響が非常に大きい。寛保元年 (1741年)8月、元服して権大納言に叙任する。

 宝暦4年(1754年)12月に直仁親王の娘・五十宮と結婚した。宝暦10年(1760年)5月3日、父の隠居により徳川宗家の家督を相続し、9月2日には正式に将軍宣下を受けて第10代将軍職を継承し、正二位・内大臣に昇叙する。
 父の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励んだ。しかし松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。田沼は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画する。
 安永8年 (1779年) 、世子・徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍・徳川家斉)を養子とした。
 天明6年(1786年)8月25日に死去。享年50。(満49歳没)死因は脚気衝心(脚気による心不全)と推定されている。
 高貴な人の死は1カ月ほど秘されるのが通例(発葬されたのは9月8日・新暦9月29日)だが、その間に反田沼派の策謀により田沼意次が失脚。また、意次が薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れた。
墓所は東京都台東区上野の寛永寺。

 

徳川将軍家では例外的に愛妻家であった。御台所・五十宮との間に2女を儲けるも(これ自体が異例)、男子を得る事ができなかった。近臣が側室を薦めてもなかなか選ばず、遂に田沼意次の薦めで側室を選ぶ代わりに田沼も側室をもつことを条件にした。家基の出産後は家基を五十宮のもとで養育させた。また側室2人がそれぞれ男児を産んだ後はお役御免かのように通わなくなった。
東インド会社オランダ商館長(カピタン)イサーク・ティチングは家治に謁見した。
大樹寺に納められている位牌が、将軍の身長とほぼ同じ高さであるとする説があり、これによると家治の身長は153センチと推測される。しかし、家重の位牌は151センチで実際の身長が156センチであることから、家治の身長はそれよりも高い158センチとする説もある。