「ほめるバズーカ砲」こと、
ドッ、ドッカーン❗
みっちゃん です✨
本日もしばしのおつきあいを。
さて、
わたしはアマチュア相撲を
13歳から42歳まで
続けてきました。
41の年だったと思いますが、
大阪国体で団体第5位(ベスト8)に
残り、愛知県に国体のポイントを
稼ぎ出し、地元から
「スポーツ功労賞」を
頂きましたが、
次の年にプログラムを見ると
参加選手の中で
自分が2番目に年齢が
高いことがわかり そそくさと引退を致しました。
そして
何故わたしが「相撲」なのかを
説明します😛
わたしの中学は、
スポーツ優先の中学校で、
1年生に入学すると、
必ず運動部に所属をしなくては
ならないという校則でした。
今なら訴えられるかも知れませんね😛
男子の入れる部活動は9つ。
クラブ見学にクラス単位で
出かけました。
相撲部の前を通ると
7,8人の先輩方が短パンの上に
マワシをつけて、
シコやすり足をしています。
すると何処かから
「相撲部なんて嫌だよな❗あんな格好恥ずかしいわ❗」
リーダー的存在だったわたしは、
「みんな一生懸命やってるんだから、
そんなこと言うな❗」
そう一括したんです。
それが悪かった、、、
「じゃあ、おまえ希望に書くのか❓」
そうきました。
そこで
「まあ、4、5番目ぐらいなら、、、」
わたしは小学校で
剣道場へ通っていましたから、
第一に剣道、第二にバレーボール
そして第三に野球、
第4に相撲を書いてみたのです。
まさか
そんな希望で入れられる訳が無い❗
そう高をくくっておりました。
そして 数日後に頂いた結果は、、、
「相撲部」と書かれてありました。
ショックでした。
相撲など
テレビでも観ないし、
やったことがないのです。
各部活を存続させる為に
人数の割り振りを
希望順にしたようです。
同期生は11人。
第七希望で入れられた 可哀想な子も
居ましたから、
文句も言えません。
わたしの青春は
ここから始まったのです(T_T)
2年生の秋までは
絶対に辞められません、、、
諦めの境地です😛
そしてもう一つ
大きく人生を変えたのが
町の「相撲おじさん」として
新聞にも取り上げられていた
当時、
60歳をとっくに過ぎているだろうと
思われる
「加古じいちゃん」との
出会いです。
時々、
稽古時間に自転車に乗って
現れて、
ああだこうだと
コーチをしていかれました。
顧問の先生は相撲は無経験。
数学の校務主任を務める
ポッチャリとした
H先生でした。
どうも体型で決まったようです。
加古じいちゃんは、
日曜日になると、
私に用事を言いつけて
一緒にやらせるのでした。
3年間で各地の土俵をいくつ造ったか、、、
俵を造る土詰めと紐結びが
地獄のような指の痛さです。
一本の俵に7箇所巻きます。
それが28本、、、わかるでしょ❓
まだ13歳なのです、、、
そして
初めての大会が
7月の知多地方大会。
そこで
全敗を味わいます。
いつも稽古をしても
自分が負けない3年生は
全勝、、、
この敗戦がわたしのお尻に
火をつけてくれたのです。
その後、
お盆近くに加古じいちゃんに
連れられて行った「奉納相撲大会」。
愛知県の一宮市での
お祭りずもうです。
子どもはほんの少しだけ出ていたのですが、全て小学生だったために,
わたしは大人の部でやらされました。
「俺、この前まで小学生、、、」
そんな声は届きません。
しかし
その時初めて祭り相撲の面白さを
知ったのです。
みんなお酒を飲んだり
しながら楽しそうに組み合っています。
中でも
一番強かった人は
大相撲で関取になれる寸前の 幕下筆頭まで行った人がいました。
もちろん むちゃくちゃ強い❗
大学生が出て来て
5人抜きの賞金を取ろうとすると 4人目ぐらいに順番抜かしをして
飛び入り、
大学生をおもちゃにして
すぐに次負けて下がります。
もちろん
八百長です。
しかし毎年観に来ている
お客さんは
それを楽しみに来ていました。
おそらく、
加古じいちゃんが耳打ちを
したのだと思いますが、
わたしに5人抜きをさせてくれ、
賞品に大きな鏡を貰って 帰れました。
その鏡は
初めて相撲でもらった、
そして母親に胸を張って お土産を手渡せた一瞬でした。
これが
相撲にハマった
きっかけです。
第一話はこのへんで、、、
本日もおつきあいを
ありがとうございましたm(__)m
明日も皆様にとって、
良い1日でありますように、、、。