甲子園球場で、敗れた球児が泣きながら砂を集めている。
その姿を見ると、胸を打たれる。長い時間をかけて練習し、仲間と汗を流し、最後の一球まで戦った。その場所に残る砂を持ち帰ることは、彼らにとって単なる記念品ではない。青春そのものを手のひらに残しておきたいという、自然な感情なのだろう。
だから私は、それを否定するつもりはない。
しかし、その光景を「美談」として語ることには、少し立ち止まって考えたい。
泣くことが美しいのではない。
砂を集めることが尊いのでもない。
そこに至るまでに、彼らが努力し、悔しさを抱え、それでも最後まで戦ったという事実こそが大切なのだ。
敗者が泣く姿を「青春の美しさ」として消費してしまえば、本人が抱えている悔しさや苦しさまで、美しい物語に変えてしまう。
悔しいなら、悔しくていい。
泣きたいなら、思い切り泣けばいい。
砂を持ち帰りたいなら、持ち帰ればいい。
そこに大人が意味を与えすぎる必要はない。
人生には、勝ったことだけではなく、負けたこと、届かなかったこと、悔しくて涙を流したことも残っていく。
甲子園の砂は、その少年たち自身が、自分の記憶として持ち帰ればいい。
美談にするのではなく、ただ一人の人間の大切な瞬間として見守る。
そのほうが、私は彼らの涙に対して、ずっと誠実なのだと思う。




