Sランク 投手
国内新人投手Sランクリスト
出身地 中国・四国
成長 晩成
持続 早め
初期値
全盛期評価
あらゆる能力がハイレベルでバランスが取れている素晴らしい投手に成長。30歳近辺だったり球威の指導のいいコーチだと球威もAに到達することがある。制球とピンチ、変化球もA以上なので安定した成績を期待できる投手だ。
コーチを権藤博にするとこんな感じになる。トレードで強奪した後の4年目にCアップを覚えさせたがそれもBランクかAランクまで伸びたのは嬉しい。↑の画像と比べると球威だけでなくスライダーにも違いがみられるが分かるだろうか
ゲーム中の成績【特筆すべき成績と通算成績など】
極めて常識的な運用をした時のキャリアハイ。
26歳ごろから防御率も4点台くらいに安定し始め34歳になるとかなりの安定感を誇るようになる。
与四死球が少ないことが安定感にもつながっている
非人道的な運用をすると稲尾和久の記録を超すこともできる。回復Cの先発はこういうときに便利なのである
私的評価【投手】
役割適性 先発 安定性B コスパD 即戦力C
活躍期間 8年~10年
総合評価 A
右腕なので抜群の安定感を持つというほどではないがそれでも成長のピーク時にはかなりの成績を上げることもできる投手。回復CスタミナSなので他の先発も同じ組み合わせなら3人ローテでも回せるのが最大の長所かもしれない。Cアップを覚えさせるだけでかなり化けることのできる選手なので新人で獲得できたならキャンプでCアップ習得後留学を実施しよう。
ただ成長しきるまではそこまで安定しないので他所に新人で取られても慌てなくていい。他球団から強奪するなら三年目には一流投手くらいの能力になっているのでそこそこの左腕と交換すれば強奪できるか
やきゅつく2003選手リスト一覧
この選手について
星野仙一 日本プロ野球記録様
中学時代から名の知られた選手だったらしく、高校進学に際して
倉敷工業高校の進学を志望していたのだが
倉敷商業高校の部長から口説かれてそちらに進学。
甲子園の出場経験はないが星野が進学して以降同校は実力をつけ始め県内でも有数の実力を持つ高校になった。
ちなみに同県の一学年下には平松政次、松岡弘という二人の化け物が存在していた。
大学は倉敷商業の監督の母校でもある明治大学に進学し1年生からレギュラーに。
通算63戦23勝24敗、防1.91 199奪三振という成績で
主将にもなった。
しかし同時代には法大三羽ガラスと呼ばれる
田淵幸一・山本浩二・富田勝
早稲田には谷澤健一・荒川尭と強力にも程がある
ライバルの存在もあり優勝には至らなかった。
1968年、空前絶後、歴代史上最高の当たりドラフトとされるこの年のドラフト会議で中日ドラゴンズに1位指名され入団した。
この時巨人から指名をすると約束されたのに反故されて打倒巨人を誓うことになったというエピソードも有名。
1年目から49試合に登板するなど即戦力として活躍。
1971年にひじを痛めてからは変化球を駆使し先発リリーフ役割を関わらずに登板8回もの二桁勝利、2度の二桁セーブを挙げるなど獅子奮迅の活躍。1974年には巨人のV10を阻止する原動力として活躍し沢村賞と最多セーブ初代表彰者となった。
1977年には自身最多の18勝を挙げるなど中日を代表する選手に。1982年にチームが優勝したのを機に現役を引退した。
とにかく巨人キラーとして有名であり通算は150勝もしていないが巨人から35勝31敗と勝ち越しており、巨人相手に30勝以上した投手で最も勝率の高い成績を収めた。
ちなみに上の巨人相手に30勝以上して勝ち越しているという条件を満たすのが
こいつらである。
選手としてよりも監督としての逸話が人物であり中日、阪神、楽天で監督を務め楽天監督時には当時最強のエース田中将大を中心としたチームで初の日本一を達成した監督になった。
また阪神でも暗黒時代をさまよっていた阪神を値の入れ替えと呼ばれる大補強、大粛清で2000年代のセリーグ三国時代を形成したきっかけにもなった。マスコミには「闘将」とよばれるなど感情を表に出す振る舞いが見えたが実質は政治家の様に長期的な視野や先見性を持った監督、指導者だったようにも思える。
2018年1月4日に死去。70歳。膵臓がんが原因で灰などにもがん細胞が転移していたが手術は受けなかった。野球ファンからすれば突然の訃報であったが楽天球団によると突然の訃報になったことこそが星野の意向であったらしい。
星野が楽天監督時代に着けていた「77」の背番号は永久欠番になっている。