Aランク 二塁手
国内新人選手Aランク二塁手リスト
出身地 九州・沖縄
成長 早熟 
持続 早め 

初期値評価

全盛期評価

成長遍歴【初期値→スタメン定着→全盛期→衰えピーク】

入団時 19歳

26歳 29歳

ゲーム中の成績【特筆すべき成績と通算成績など】

規定打席に到達した年がなかったために、一番打数の多かった年を選出。

うん…能力見れば察しが付くがまぁ…ね

守備だけでレギュラーになれるものでもないので出場機会は少なかった。


私的評価【野手】

打撃 D 正直全く期待できない。.270打てればましか
守備 C 確実性自体はあるが人並み程度。Bランクレベル
走塁 D 守備型の選手のくせに低いのはマジであれ
コスパ C 年俸は低いがそもそも対して活躍しない悲しみ
即戦力 D 守備だけは役に立つ。成長しても大して…
活躍期間 E そもそも活躍するんですか?

総合評価 E

Aランクとはとても思えないクソみたいな選手。守備に関してはそこそこだがそんなものCランクでも山程いるので守備を強化したいならこいつを取る必要はない。打撃走塁に関してはなおさらである。よくこんなのでAランクにしようとしましたね。絶対監督時代のネームバリューだけでなりましたよね?


やきゅつく2003選手リスト一覧

この選手について


仰木彬 日本プロ野球記録様

現役時代は西鉄ライオンズの選手として活躍し

指導者時代は西鉄、近鉄、オリックスのコーチや監督を務め

近鉄とオリックスの監督時代は優勝争い、日本一を達成するという歴史的に弱小球団と呼ばれる両球団の監督として優秀な成績を収めた名監督。そしてあのお方の師匠としてよく言われる監督である。

 

高校時代はそこそこ有名な選手だったらしく南海ホークス、中日ドラゴンズ、西鉄ライオンズの三球団に勧誘される。元々は南海に入団希望で契約金の提示も一番高かったのだが、自宅に西鉄の監督である三原修が来て説得。契約金も一番低かったが運命を感じたと入団を決意する。元々投手だったが二塁手にコンバートされる。

 

1年目から二塁手レギュラーとして活躍。リーグ優勝にも貢献した。打撃ではあまり活躍しなかったが守備の堅実さでチームの柱になった。

入団時から遊びが大好きで当時の三原監督からそっち方面のお説教を多く受けたらしい。しかしその三原が監督を辞めた際に

このままでいいのかと自問自答し野球に打ち込む。その際打撃コーチの坪内道則と共に特訓。結果1960年にはキャリアハイの.267を記録しベストナインを獲得した。

 

しかしその後は助っ人にポジションを奪われコーチ兼任にもなったことで出場機会数が減少。1967年で現役を引退した。

 

ここからは専任指導者の時代になる。

1970年に近鉄の守備走塁コーチに就任。その後長期にわたり近鉄の指導者として在籍し続け1979年の江夏の21球で有名な広島との日本シリーズでも三塁コーチャーを務めた。

1987年に岡本伊三実監督の後任で近鉄の監督になる。一年目から10.19を繰り広げるほどの激闘を繰り広げたが優勝を逃す。ちなみにこの前年が最下位だったこともあり仰木マジックと評されるほどの高采配を振るった。

その後も1992年に監督を退くまで毎年の様にあの近鉄で優勝争いを演出した。

 

解説者を一年間だけ務めた後1994年にオリックスブルーウェーブの監督に就任。一度しかないオリックスの黄金時代を作った。

イチローを二軍からいきなり抜擢したり、田口壮を外野手にコンバートし大活躍させるなど1年目からチームを2位に浮上させる。

1995年に現代日本史に残る災害、阪神淡路大震災に遭い試合開催も難しい状況だったが「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ優勝。なお

 

1996年にも優勝を果たし巨人との日本シリーズ。4勝1敗で監督としても日本一に輝く。その後も1999年まで6年連続、近鉄時代も含めると11年連続のAクラスを維持し続けた。しかし2000年からは成績が低迷し2001年までBクラスが続きその年限りで監督を退く。

ちなみにこのゲームをプレイしている方々ならご存じだろうが

仰木が監督を退いた後オリックスは歴史に残るレベルの暗黒時代を形成してしまい、結局今でもそのイメージが続いてしまっている。いい選手もいるしタイトルホルダーも多く存在するのに毎年の様にFA宣言をされ大体阪神に移籍するというのが風物詩となっている。

 

2005年からかつて自身が率いていたバファローズとブルーウェーブの合併球団オリックス・バファローズの初代監督として就任。この時70歳であり最高齢での監督就任となった。後に野村克也が更新するが。

 

しかしこの時期にはすでに身体はがんによって蝕まれている状態でありかなり無理をしていたらしい。このことはごくわずかの親しい関係者しか知らなかったらしくこんな状況でもシーズンが終わると球団からは監督続投を要請されるなどしていた。チームの成績は奮わなかったがそれ以下だった数年に比べればだいぶ向上したといえるチーム成績であり4位につけた。残念ながら2005年の一年のみの監督となり最終戦の翌日に記者会見で監督引退を表明した。

 

そしてその会見の2か月後12月15日に肺がんによる呼吸不全で死去。70歳であった。

 

選手としてはそこそこのものであったが監督時代の成績や育て上げた選手にMLBで活躍した選手が多く存在しているので名監督と称されている。

事実そうなのだが野茂英雄以外の投手経験者とは中々な不仲説がこの時代になってよく露になることがあり、昔から有名だったのは近鉄監督時代に起用法をめぐって権藤博コーチと不仲であったりオリックス時代は山田久志コーチとも仲が悪くなったなど衝突エピソードが多い。

 

大変申し訳ないがこのブログを初めて権藤博を神格化し始めた私からするとそこまでいい印象がないという悲しみ。

 

間違いなく名監督であるが。