Sランク 遊撃手
国内新人選手Sランク遊撃手リスト
出身地 関東 
成長 早熟 
持続 遅め 


初期値評価

超即戦力ルーキー。打撃と守備に関してはかなり能力値が高く一年目からレギュラーにして通算でどのくらい成績を残せるか実験するのも面白そう。走塁に関しても盗塁が低いが走力自体はすごいので成長させれば走攻守で活躍できる選手になるだろう。

 

全盛期評価

元々初期値が良いので上がり幅が少ないがさらに全体的に仕上がった感じの選手に。盗塁がBというところ以外は欠点がない。走攻守の全てがハイレベルであり隙がないので文句なしの選手に(盗塁に欠点ていったばかりだろとか言わない)

 

成長遍歴【初期値→スタメン定着→全盛期→衰えピーク】

入団時 一年目終了

27歳 34歳

 

ゲーム中の成績【キャリアハイと通算成績】

1年目の成績とキャリアハイ

1年目から.300 30HR 100打点の主軸として活躍しそれが10年以上続くので意外と通算成績も稼げる。

キャリアハイの成績も衰えがだいぶん進行している状態での成績なので衰えたからと言ってすぐに若いやつを探す必要もないというのも選手としての評価点に

私的評価【野手】

打撃 B クリンナップを任せられるほどの選手に
守備 A 走力含めて全盛期はオールA以上に
走塁 B 盗塁がAだったら文句なしだったのだが…
コスパ C 1年目から活躍するので高騰するのは早い 
即戦力 A 1年目からレギュラーになれる超即戦力
活躍期間 A 1年目からレギュラーなので14年くらいは使える

総合評価 A

入団時点で完成されている超即戦力遊撃手。打撃走塁守備とあらゆる能力のレベルが高く毎年チームでも突出した成績を残せる。18歳入団で早熟だが遅めの持続性でしかも即戦力なのでかなり活動年数は高い。通算成績もある程度良いものが残せるだろう。特に言葉はいらないくらいに本当に優秀な選手でコメントに困る。結構FAもしてくれる印象なのでもし新人で取れなかったら取ってみることをお勧めするし、新人出来たら真っ先に取りに行くべき人材でもあるのでぜひ起用してほしい


やきゅつく2003選手リスト一覧

この選手について

豊田泰光 日本プロ野球記録様

 

戦後プロ野球草創期に西鉄ライオンズに入団し、稲尾和久、中西太、大下弘などの名選手と共に西鉄黄金時代を形成した野武士集団の一人であるだけでなく、NPB史上屈指の超攻撃的な遊撃手としても知られる名選手。
 
高校時代は甲子園に出場し選手宣誓も務めたことがある。元々早慶戦に憧れがあり本人は大学進学を望んでいたが父親が病気になってしまったために進学を断念。その折に自信を積極的に勧誘してくれた西鉄ライオンズに入団を決意。
 
一年目からショートのレギュラーになり.281 27HR 25盗塁の活躍を見せ新人王に、当時新人での27HRは日本記録になった。(のちに桑田武、清原和博が更新)
 
4年目にプロ野球史上初、現在でも三人しか達成者のいない遊撃手での首位打者を達成する好成績を残す。
.325 12HR 31盗塁
ちなみにこの時同僚の中西がHRと打点の二冠王を達成し打率はデッドヒートと呼べる状態であった。この年はチームも初の日本一に輝き充実したシーズンを過ごす。
この後も流線型打線と称される上位打線から強打者を並べる西鉄の打線においての主軸として活躍し、チームは黄金期を迎えることになる。
 
1962年に手首の状態が悪化した中西が選手兼任監督になるのに合わせて豊田自身も助監督兼任選手になる。中西、豊田、コーチ兼任になった稲尾も含めて若い人材によって首脳陣が形成されたので青年内閣とも呼ばれたが、豊田の歯に衣着せぬ物言いのせいなのか中西監督との関係が悪化。それに加えて自信を助監督兼任選手にする場当たり的な西鉄フロントの人事に反発。1962年に助監督兼任を1年で辞任し童年オフに国鉄スワローズに金銭トレードされた。
 
この国鉄入団には国鉄のコーチを務めていた砂押邦信が大きな要因になっており、高校の大先輩であり高校生だった豊田と当時立教大学の監督を務めていた砂押は大学に留学することを約束していたのにそれを反故にしてプロ入りしてしまった。そのために「二度もわしの顔に泥を塗るのか」と言われてしまったために入団することになる。
 
国鉄移籍後は1年目と2年目はそこそこの成績を残すがそこからケガによって成績が低迷。
国鉄1年目
.292 20HR 70打点 12盗塁
国鉄2年目
.275 24HR 59打点 7盗塁
遊撃手を守っていた豊田も一塁手への転向をするなどしたが1969年に現役を引退。17年間の現役だった。
 
現役引退後は1度だけ近鉄のコーチを務めただけで解説者として活動。球界で本や論評を出す人物と言えば野村克也や
広岡達朗あたりが有名だがこの豊田も数多くの評論を残している。
 
現役時代に稲尾の活躍や立ち振る舞いに感銘を受けて、稲尾の入団当初は冷たい対応をしがちだったのを改める。2007年に自身より年下にもかかわらず先に逝ってしまった稲尾和久に対し「ショックです。親、兄弟と同じ存在だった」
「西鉄というのは稲尾ライオンズ。ライオンズをつくったのは稲尾。わたしの心の中で西鉄ライオンズはきょうで終わりです」とコメントするほどであった。2012年に稲尾の背番号24が永久欠番になったイベントの際には稲尾を思い涙を流した。
かつて関係が悪化した中西太とも晩年には関係がかなりよくなり親しい関係に戻ったという。
 
解説者、野球評論家としてかなり異質というか攻撃的な話をすることで有名な人物であり、広岡達朗なんかとは違いそこそこ評判も良かったが球界でも結構敵が多かった印象ではある。
 
2016年に誤嚥性肺炎のため81歳でなくなった。
 
本当に西鉄ライオンズの人物を調べていくと中西さんはいつ死ぬんだろうと不謹慎にも考えてしまうとともに、本当にもうちょいだけ長生きしてくれと祈ってやまない。そう考えてしまう今日この頃でした。
 
以上