Sランク  
三塁手 国内新人選手Sランク三塁手リスト
出身地 中国・四国 
成長 超晩成
衰え 早め 

初期値評価

長嶋茂雄を超える超即戦力ルーキー。選球眼が少し怪しいが守備走塁面に関しても隙がないという完璧超人。一年目から1番か3番を打たせてやるのが本人のためになるだろう。

 

全盛期評価

初期値が高いので成長分が少ないのが悲しい。

左投手に強く確実性と破壊力を持つ打撃、

高い技術で盗塁を量産できる機動力、

確実性とパワフルさを感じさせる守備能力。

完成度の高さは登場する選手の中でもずば抜けている。

ところどころBが多いので地味さを感じてしまうかもしれないが

成績自体は狂ったものを残せるので安心してほしい。

 

成長遍歴【初期値→スタメン定着→全盛期→衰えピーク】

23歳(入団時) 37歳

38歳(衰え開始) 39歳(衰え終盤)

 

ゲーム中の成績【キャリアハイと通算成績】

1年目の成績。さっそくチームの主軸として活躍。

打率本塁打打点安打盗塁とあらゆる指標でチーム内でも

ベスト3に入るほどの実力者として活躍できる。

 

一応キャリアハイ。40HRを超えることはとうとうできなかったが選手としての有藤通世の本領は機動力。高い打率と出塁率で毎回のように出塁しては盗塁を決め、ついには年間で93盗塁という記録を打ち立てた。

 

通算成績

同僚に張本や佐々木誠やらがいたせいでタイトル回数は

スター級にしては恵まれなかったがそれでも新人王と

数多くの盗塁王や打点王などのタイトルを獲得している。

現役が有藤に比べ短いはずの長嶋がこれだけの成績を残せるので、最強候補は長嶋になってしまうのかもしれない。

ただ有藤の最大の長所は現役期間の長さ。

長嶋が現役引退する年齢が有藤にとっても全盛期であり

その全盛期が来る前から素晴らしい活躍を毎年できるので

その点でも魅力的な選手であるといえる。

 

私的評価【野手】

打撃 B 毎年安定してスラッガーの成績を残せる。
守備 A 範囲、肩、捕球などすべて優秀。
走塁 SS 最大の長所。シーズン記録更新も夢ではない。
コスパ D 20億は平気で越えてくると思われる。 
即戦力 SSS 三塁手では最高の完成度を持つルーキー。
活躍期間 S 大卒でありながら18年間という期間戦える。

総合評価 S

走攻守全てにおいて隙がない超即戦力ルーキーとして一年目からクリンナップを張れる超逸材。今回のプレイデータでは

盗塁で突出した活躍を見せてくれたが、打率本塁打打点の指標でも安定した結果を毎年残してくれた。なぜかは知らないが出てくるときはとことん出てこない印象なので、見かけたら取りに行くべき選手である。ここまでで語ってこなかったが、彼のもう一つの長所にこれだけの能力を持ちながら二塁手と捕手以外は守備適正を持っているという万能性もあげられる。三塁手は野球界の魔境なので三塁手が埋まっている場合でも有藤は居場所に困ることはないだろう。


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この選手について


有藤通世 日本プロ野球記録様

ミスターオリオンズとして名高いパリーグのスター。

パリーグでの大卒選手初の2000本安打達成者でもあり

ロッテオリオンズの優勝、日本一を経験した名選手。

 

生まれは名古屋だったものの間もなく両親の離婚により高知県に移る。元々は相撲が大好きな少年であったらしい。

中学入学前に籠尾良雄という人物から野球を教わったことがきっかけで野球を始める。この籠尾という人物は後に土佐高校というところで監督をつとめ甲子園に導くという功績を残した。

 

高校は高知高校に進学。投手として活躍し甲子園にも何度も出場する。彼が所属しているうちに甲子園で優勝もしたがその年に限って顔面に死球を受けてその試合以来欠場しその後チームは甲子園優勝。その時有藤は病院のベッドでテレビ越しでその様子を見ていた。

 

元々母子家庭なので卒業後は働くつもりだったらしいが周囲の支援もあり特待生で近畿大学に進学した。南海で三塁手として活躍する藤原満と三遊間(藤原が遊撃手)を形成し、エース山下律夫らと共に関西六大学野球リーグで近畿大学を初優勝に導き、優秀な成績を残した。

そして1968年のドラフト会議で東京オリオンズ(この翌年にロッテ)に一位指名を受けた。本人は社会人野球も考えていたものの、当時近鉄の監督だった三原修が新聞で

「高知の人間は素質はあるが酒と女でつぶれる」という趣旨のコメントを残したことでブチギれ。プロに行く気持ちが高まり、最終的に大学の教授に「25歳でレギュラーになれなかったら大学職員にする」という約束を取り付けたことにより入団を決意した。そしてこの時つけた背番号8が以後ロッテの名選手の象徴になるが、有藤以前に8をつけた選手は

シュート打ちの達人山内一弘だった。

 

1969年(1年目)からレギュラーとして活躍し新人王を獲得。

2年目には全試合出場を果たしオールスターにも選出される。オールスターは以後13年連続で選出された。

何よりもこの年チームはリーグ優勝を果たし有藤自身も

.306 25HR 80打点 27盗塁という素晴らしい成績を残し優勝に大きく貢献。日本シリーズでは奮わなかったが全試合出場した。

 

そして1974年にオリオンズは日本一。

有藤はこの年打率は.263と安定感はなかったが25HRと20盗塁を果たしチームのリーグ優勝に貢献。日本シリーズMVPは逃したが打撃賞を受賞する優秀な成績を残した。

1975年には有藤通世から有藤道世に登録名を変更。

以後もオリオンズの主力として活躍し続け

1977年まで連続20HR以上を放ったり盗塁も二桁に乗せるなど打撃と走塁面でも優秀な成績を残し続け首位打者に。

 

しかし同年以降からケガに泣かされることも多くなり

1982年以降は打撃成績も低迷。この頃から時代の監督候補にも挙げられるようになり、1981年に山内一弘が監督を契約期間を残して退団したことにより危うく監督にされかけた。

ちなみにこういう状況下で有無を言わさずに監督にされたのが稲尾和久である。(もちろん球団も時代も違うが)

 

1986年に現役を引退。1987年から監督に就任した。

しかしここからオリオンズは安定していい成績もしくはそこそこの成績をこれまで上げてきたのが一気に急降下し最下位が定位置の暗黒時代というよりかは灰色の時代に突入。

監督になる条件として当時ロッテの打線の主軸だった

落合博満とレロン・リーを追い出すことを提示したらしく

就任直後に1対4という前代未聞の条件で落合を放出し

レロン・リーも退団。これまでのオリオンズは長打力のある打線が強さの源だったのが一気に弱体化。育てようと思った選手が伸びない事態が続き、明るい話題が西村徳文の盗塁王争いという横浜でいう内川の打率阪神で言う和田豊の打率というのと同レベルで良い話題、ファンの楽しみがなくなった。加えて近鉄の優勝が懸かった1988年の10.19でダブルヘッダーの日程にプレイをめぐって抗議したことで時間が伸び

結果的に近鉄の優勝を阻止したことでヒールとしての側面が出来上がってしまい悪い印象を持たれることになってしまった。

 

現役時代はトリプルスリーを狙えるほどの名手として

あの掛布雅之が「理想」とまで讃えたほど選手であったが

監督としてはアレ極まりない成績で、しかもその原因が

選手のえり好みというのが情けない限りである。

 

ただ私としてはロッテファンだしゲームでも優秀な選手なのでめっちゃ好きというのは明言しておきたい。(唐突な愛の告白)