Sランク
二塁手 国内新人選手Sランク二塁手リスト
出身地 東海・甲信越
成長衰えタイプ 晩成 普通
初期値評価
序盤のようなチーム状況であればの話ではあるが
守備と走力に関しては初期からでもかなり高い方。
打撃に関してはかなりあれだがルーキーイヤーから
9番セカンド起用も十分にあり。
全盛期はこの年のように思えたのでこちらを貼る。
打撃に関しては巧打は首位打者狙えるレベルのハイバランスであり毎年.340は固い。選球眼がBなのでガンガン降るタイプであるから首位打者よりも最多安打のほうが狙いやすいかもしれない。チャンスにも強いので打順のどこにいても腐らない。肝心の長打もBに近いCなので狙えないこともないが20本打てればかなり上出来レベルだろう。
走塁に関しては神の領域である。相手チームの捕手の肩にかかわらず毎年平気で50盗塁くらいはしてくれるだろう。このゲームの盗塁のシーズン通算記録更新を狙える数少ない選手である。是非とも1,2番に置きたい。
守備も神である。二塁手なので肩は強くないが
捕球と守備適正がS、守備力がAになりそれに加えて
走力がSなので守備範囲とその安定感が半端ではないのである。今作最強の守備総合能力を持っていると過言ではない。
成長遍歴【初期値→全盛期→衰えピーク→引退】
入団時→スタメン起用時(21)→
全盛期(32~34)→晩年(36)球団解体で引退
ゲーム中の成績【キャリアハイと通算成績】
通算でトリプルスリーをやる変態的な選手ができてしまった。もちろん通算盗塁数も現実の福本豊越えである。
二塁手という守備力が何より重視されるポジションで
最強の守備力を持ちつつも攻撃力を兼ね備えた
華実兼備の名プレイヤーと言えるのではないか
↑の画像(3年目21歳くらい)
.311 21HR 75RBI 162H 12ST OBP.365
↓の画像(7年目25歳くらい)
.365 32HR 149RBI 236H 82ST OBP.464
30HR打てました👍
盗塁のキャリアハイは97盗塁ほどだったのでその面ではキャリアハイではないのだがまさか30HR打つとは思っていなかったのでこちらを選出。
使用中のデータでは
アレクシス、福本豊、秋山幸二、高木守道、松永浩美の
60盗塁クインテットを形成し恐怖の千年帝国をパリーグに作った。すごい(小並感)
私的評価【野手】
打撃 B+ 打率は文句なし。走塁との相乗効果もあり◎
守備 S 最強レベル。とりあえず置いておけ。完成も早い
走塁 SS 通算記録更新も狙える神。守備打撃にも好影響
コスパ D これに長打力もあったらやばかった。二桁億は行く
即戦力 B 3年でスタメン起用もOK。他所に入団後に強奪せよ
活躍期間 A 15年はスタメン張れる。他の二塁手が死ぬ。
総合評価 SS
走攻守揃った最強の二塁手候補。現役期間の長さもそれに拍車をかける。走力の高さを軸として打撃と守備にも好影響を与える。スラッガーというタイプではないが30HRも夢ではない打撃能力を持ち、あらゆる方面で隙がかけらもない選手に
なっている。シーズン記録もとんでもないものを記録できるが
通算成績でもぶっ飛んだものを記録できるので最強と言っても過言でもないといえるだろう。
もし起用する場合は両打にすることが必須である。
やきゅつく2003選手リスト一覧
この選手について
2代目ミスタードラゴンズとして球史に名を残す伝説的選手。
高校時代に当時立教大学の学生であった長嶋茂雄にも才能を見出され同校に来た際に指導を受けたという経歴を持つ。
甲子園にも出場したがプロからの誘いが来ずに大学進学の予定だったところ中日からオファーが来て入団を決意。
1960年に入団し最初は内野のユーティリティープレイヤーとして活躍。1963年にレギュラー的存在だった半田春夫が退団しレギュラーに抜擢。規定打席にも到達し50盗塁で最多盗塁を記録した。ちなみに半田春夫によって伝授されたバックトスが後の高木守道の代名詞的なものになっていく。
毎年のように.300近辺の打率と二桁HRと二桁盗塁を記録し
若手の時点で中日の中心的存在になっていった高木守道は
1968年に堀内恒夫に顔面死球を喰らってからは打率的に低迷していく。この死球は一時意識不明になるほどのものでもあったが年々にその低迷も改善されていき1974年にセリーグ制覇を果たした時には
.276 15HR 14ST 47OBIの好成績を修め優勝に貢献。
なお日本シリーズはロッテオリオンズと戦い敗北してしまう。
ここでも敢闘賞になる活躍を見せた。
その後も変わらぬ活躍をつづけた高木守道は1979年に38歳で.300の成績を上げたものの1980年に王貞治と同時に引退。引退セレモニーも同時に行われた。
引退後は古巣の中日でコーチを務めたこともあったが
何よりも2度の中日監督期が挙げられる。
中日監督1期目は
1992年の超絶激闘ペナント(全球団60勝台)
1994年の10.8決戦などの名場面を作ってきたが優勝は出来ず。
2期目も高齢ながら、そして中日史上最高の監督の落合博満の後継ということもあり驚かれた。
この2期目は2年間のみであったが優勝は出来ず2013年に勇退。これが最後の指導者経験になった。
監督やコーチの経歴以外には解説や少年野球の指導を
精力的に行い野球界への貢献を続けていた。
しかし2020年1月17日に急性心不全にて死去。78歳であった
選手としては中日ドラゴンズでの野手のほぼ全ての指標で
歴代TOP10入りするほどであり、通算200HRを記録したのは二塁手として先発出場率が90%を超えている選手中最多。
規定打席に入り一桁HRだったシーズンは3シーズンのみであり、打撃成績は通算でも当時でも傑出したものを記録。
そして何よりも名人芸とうたわれたバックトスに
代表される守備能力は日本野球史上TOPレベルであり
試合出場数、守備機会、刺殺、補殺、失策、併殺は
二塁手歴代1位を記録。
他のポジションも含めた補殺は5917はNPB最高記録である。
RF(レンジファクター)=守備範囲の広さを表す守備指標があるが、高木守道が残したレンジファクター系指標による
二塁守備の通算でNPB史上歴代最高値を出している
記録的にも記憶的にも最高の二塁手である。
やきゅつくユーザーにとって今年の高木守道氏の訃報を聞いたときはまさしく青天の霹靂というべき衝撃が有ったでしょう。今作においても最強レベルの二塁手であり
実際のプレーを見た世代にとっても、私のようなゲームでしか知らない世代でも本当にショックでした。
野球を好きな人間としてどうか高木守道の名前を長く語り継ぎたいものです。
それではここまで
ありがとうございました。